【自作小説】『いつか死にゆく俺たちは』(6/7)

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自作小説です。

本文は以下から。

 インターホンを押すとすぐに、怪訝な面持ちのマリナが顔を出した。

「どうか、されました?」

「話を聞いてくれませんか」

 数秒の沈黙の後、マリナは俺を自宅に招いた。

 広い玄関の割に、廊下は人がすれ違うには狭い。灰色のカーペットは長年使われているのか、ところどころに生活の跡が残っていた。

 突き当たりに風呂場があり、左手には仏壇が見えた。線香の香りはそこから漂っていた。どこか祖母の家を思い出す。

「こっちです」

 和室とは反対の方からマリナが手を振っている。

 リビングは広く、布団をはがしたこたつテーブルが中央に存在感を示している。壁際に置かれたテレビの脇には小さな写真立てがある。記憶の中よりも成長した姿のユキが、白い歯を見せて笑っていた。

「座っていてください。お茶を出しますから」

 マリナはそう言ってキッチンに引っ込んでいった。その後ろ姿から、俺は目を離せなかった。

黒いキャミソールの上に薄いピンクのカーディガンを添えて、細めのパンツでラインを整えている。長い髪は大きめのシュシュでゆったりとまとめられていた。

 視線に気づいて、マリナは手を止めた。顔色を覗き込むように俺を見ている。

瞬間、ホテルでのあの夜を思い出して、俺は目を逸らした。

ほどなくしてマリナがコーヒーを持ってきて、机を挟んで向かい合うように座った。

 それからしばらくは会話がなかった。何となく話題を切り出せなくて、俺は窓から隣家のブロック塀を眺めていた。窓は少しだけ開かれていて、時々暖かい風が吹き込んでは二つの風鈴が澄んだ音を奏でる。それぞれが独りよがりなリズムで、一向に揃わないところがもどかしさを感じさせる。

 女子高生と出会った夜から、俺はまっすぐ立てなくなっていた。

 まともに死ぬこともできず、自分がしようとしていたことの意味を完全に見失った。

 それだけならまだましだった。さらに俺は、情けないことにまだ死にたくなかったようだ。あれだけかっこつけて死ぬ準備をしたことが急に滑稽に思えてきた。

 女子高生の自殺を止めたあのとき、俺の中にあったのは死の恐怖だった。今なら分かる。俺は怖かったのだ。誰かが死ぬのも、自分が死ぬのも。

 それだけではない。俺の中にはまだ、生きる意味があった。いや、新たに生まれたのかもしれない。

 それが何なのかは分からない。それが知りたくて、マリナを求めた。

 最後の一口をグイと飲み干して、カップを置くのを皮切りに俺は口を開いた。

「この前、自殺しようとしました」

 途端にマリナの顔が凍る。生唾を飲み込んで、喉が大きく動いた。

 ギリギリまで悩んで、銃を持っていることは隠した。橋から飛び降りようとしたと、嘘をついた。

「でも、あと一歩まで来て、急に、死にたくなくなってしまったんです」

 銃を口に咥えたときの、あの感覚が蘇る。生の世界へ強烈に引き戻される、強い力だ。

「死ぬ寸前、頭をよぎったのは、ユキではありませんでした」

 マリナの肩がわずかに上がった。

「あなたを、思いました」

「どう、して……?」

 絞り出すような声だった。頬は紅潮し、唇はわずかに震えていた。憐れんでいるようにも、困惑しているようにも見える。マリナの中で様々な感情が混ざり合ってゆくのが分かった。

「どうして私なの、ですか?」

「おかしな話ですよね。ユキのために自殺したのに、最後の最後で、マリナさんだなんて」

 俺は自嘲気味に笑った。

「もしかしたら俺は、それほどユキが大事じゃなかったのかもしれませんね」

 冗談交じりに言ったつもりだが、半分は本音でもあった。

 きっかけは女子高生に小説を投げられたときだった。ユキのことを考えないときはなかった。だから今までは分からなかった。

 マリナを抱いていたあの瞬間だけは、ユキのことを忘れられた。そして、死ぬ間際にマリナの顔を浮かべたときも、そこにユキの影はなかった。

 実際、ユキから離れている時間は楽だった。だがそれを認めてしまうと、俺はこれまでの人生を否定することになってしまう。その勇気が俺にはない。埋められることのない大きな穴が空いてしまうようで、怖いのだ。

 それにユキを失ったとして、俺は真っすぐ立てるか不安だった。誰かが隣に立っていて欲しかった。

 マリナなら理解してもらえる。このときはそんな甘い考えを抱いていた。

「なんですか、それ」

 だから、マリナにきっぱりと拒絶されたときは、狼狽えた。

「オカモトくんがそこまで弱い人だとは、思いませんでした」

 静かな怒りだった。だがその言葉は悲しみを含んでいた。

「どうしてそんな簡単に、ユキちゃんを諦められるのですかっ」

 俺は何とか取り繕うとしたが、言葉が出てこなかった。マリナを怒らせたことで、ここまで動揺するものだろうか。

「違うんだ」

「何が、違うのですか」

「それは……」

 マリナに気圧されて、喉が詰まる。取り留めもない言葉が頭を駆け巡る。こういうときに、作家という看板は役に立たない。

 どれだけ上手いことを言おうがこの場では関係ない。むしろ逆効果になりかねない。だから素直な気持ちを表現することが、一番だと思った。

「あなたが、必要なんです」

 だが迂闊だった。

 マリナは肩を震わせ、俯いた。歪んだ口元が、今にも怒りを吐き出そうとしていた。

「……出ていって、ください」

 これが最後だとでも言うような、感情を抑えた声だった。こうなったらどうしようもないことなんて分かっていたのに、それでもあがこうとした俺は馬鹿だった。

「マリナ、俺は……」

「出てって!」

 有無を言わせなかった。マリナはこれ以上口を利かないように、唇を強く噛んだ。

 少しの間、沈黙が流れる。強い風が吹いて、風鈴を荒々しく鳴らした。その不協和音がリビングの空気をかき乱した。それでも、写真の中でユキは笑っている。

 俺はマリナのそばに行って、真っ赤な頬を拭ってやろうと手を伸ばした。

 それも払いのけられた。一言も言わず、こちらを見もしない。その強情な態度に、少しだけ腹が立った。

 だがどうしてか、その姿に別の感情が湧いてきた。急に胸が締め付けられる。訳が分からなかった。目の前の彼女を、どうしてこんなに、愛おしく思えるのか。

 俺はそっとマリナの肩に触れた。はっとするくらいに華奢だった。

 マリナはただその身を震わせているだけだった。儚げで、放っておいたらどこかに行ってしまいそうだった。

 たまらなくなって、俺は背中からマリナを抱きしめた。彼女の身体は俺の腕の中にすっぽりと収まった。

「やめて……」

 マリナは泣きそうだった。抵抗する代わりに、腕の中で身じろぎした。

「こんなこと……ユキちゃんに見られたら……」

「ユキはもう、いないんだ」

 俺は自分に言い聞かせた。

 そう、ユキはもういない。どこを探しても、どんなに名前を呼んでも、ユキの姿はない。それなのに、世界は何の変わりもなく動いている。彼女の周りだけがその悲しみを共有して、いつかそれすらもなくなってしまう。

 人間は二度死ぬ。一度目は身体が生命を終えたとき。二度目は人々から忘れ去られたとき。

 今もユキは俺の心の中で生きている、と簡単に言うことはできる。だがそれも体のいい慰めだ。人間は死んだら死ぬのだ。それで終わり。

 残された人間にできるのは、死者が生きられなかった世界を生きること。決して、死者の後を追うことではない。

 分かっていたのに、俺は道を踏み外しかけた。ユキがいないという現実から逃げようとしていた。

 だが、それでも人間は立ち直ることができる。支えてくれる人がいれば、再び歩き出せる。

『オカモトくんは決して独りじゃない』

 あの言葉にどれだけ励まされたことか。自覚していなくても、俺の胸の中でずっと燃え続けていたのだ。

 独りでは生きられなくても、二人なら。

 俺はマリナをさらに抱きしめた。音がしそうなほどに、強く。

「自殺しようとして、分かったことがあります。俺はまだ死ぬべきじゃなかったんです」

 マリナは黙っている。

「俺はこれからも生きなければならない。それも、ユキのいない世界で」

 彼女は小さく息を吸ったが、俺は言葉を待たずに続けた。

「ユキのことも、もう忘れた方がいいのかもしれない」

 苦しみから逃げるためではない。前に進むために、ユキと決別するのだ。

「オカモトくん……」

 マリナの長い睫毛が震えている。その瞳の先に見ているものは、俺と同じものであって欲しかった。

 俺はマリナをこちらに向かせた。目元が真っ赤に腫れたマリナは、いつもより幼く見えた。不安げに俺を見上げ、瞳を揺らしている。熱いものがこみ上げてきた。

 彼女が何か言おうとする前に、俺はその声を唇で塞いだ。息が切れそうになるまで、一心にキスをした。一度だけ離したときに漏れた吐息が熱い。

「好きだ」

 そう言って、もう一度だけ短いキスをした。涙の混じった唾液は、少ししょっぱくて、切なかった。

「ずるいです……そんなの」

 艶やかな唇から紡がれた言葉は、とても繊細だった。

「すまない。でも、こうでもしないと、本当に死んでしまいそうだ」

 感情の奔流に飲まれるがままに、マリナを押し倒した。

 あのときとは違った。手順もへったくれもない、欲望の赴くままに、強引で激しいものだった。互いが互いの思いをぶちまけて、それを受け止めようともしない。だがすれ違いながらも、そのリズムは次第に一つに重なってゆく。鼓動さえも共有しているかのように錯覚した。

 確かにそこには、愛があった。

 服を着たマリナは奥の部屋へ行って、白い封筒を一つ持って戻ってきた。両手で大切そうに抱えている。

「これを、渡すときが来たようです」

「なんですか、それ」

 予想はついていた。マリナの神妙な表情から、それはうかがえる。

「ユキちゃんからの、手紙です」

 だから俺はあまり驚かなかった。ただ、胸が熱くなっていた。どんな形であれ、ユキの言葉をまた聞くことができるのだ。

 薄い封筒には何も書いていなかった。

「開けてください」

「いいや、ここじゃない方がいい」

「えっ」

「車、出せますか?」

「出せます……けど」

 ポカンとするマリナの手を引いて外に出る。空はすっかり暗くなっていた。辺りはひっそりとしていて、この場に俺とマリナしかいないように思えた。

 車内では一言も交わさなかった。時々覗いたマリナの横顔は、俺の真意を図りかねてか険しかった。

 葬儀場の先の交差点を曲がって、あの橋を通った。俺は何も言わなかった。

 脇道に入り、住宅地の細い道を少し走ったところで俺は車を止めさせた。

 そこはこぢんまりとした広場だった。入り口から、隣接している町内会の施設が正面に見え、左手には看護学校がそびえ立っている。謎の形状のジャングルジムが申し訳程度に設置されている他に遊具はない。あとはトラックのコンテナが脇に置かれているだけだ。

 ただでさえ人がいないのに、夜にもなると静まり返っている。灯りもなく、看護学校の窓から漏れた光がぼんやりと砂地を照らしているだけだった。

「ここは……」

 マリナもここには覚えがあるはずだ。この広場から、俺たちの中学校はそう遠くない。

「中学校の帰りに、よくここでユキと喋っていたんです」

 同級生が呆れるほど仲の良かった俺とユキは、学校の中では飽き足らず、帰りに

も一緒だった。

「不思議なんですけどね。ここにいると何でも話せそうな気がしました」

 この広場は当時もほとんど人気がなく、二人きりで喋るには絶好の場所だった。登下校でここを通る人も少なかった。もっとも、あの頃の俺たちは人目なんて全く気にならなかったが。

「本当に、他愛ないことばかりでしたよ。宿題のこと、嫌いな先生のこと、テレビ番組のこと、好きな本のこと。小説を読んでもらっているときも楽しかったですが、ここで話している方がもっと楽しかったかもしれませんね」

 マリナはただ黙って聞いていた。俺とユキの世界に踏み込まないように、一歩引いた場所で立っている。

 その配慮はありがたかった。

 俺がこの場所に来たのは、ユキと別れるためだった。手紙に何が書いてあっても、俺は意志を曲げるつもりはない。だからこそ俺はしっかりと別れがしたかった。ユキの墓ではなく、この思い出の場所で。

「そろそろ、開けますか」

 目配せして、マリナにもそばにいてもらった。マリナにとっても、ユキは大切な友人だった。彼女にも手紙を読んでもらいたい。

 封筒を開けようとする手にマリナの手が重ねられた。

「やっぱり、少しだけ、少しだけ待ってください」

 思い詰めたような表情だった。

 深い呼吸を三回してから、マリナは言った。

「全部話します」

 目尻には涙がにじんでいた。俺はマリナの肩をそっと抱いてやった。きっと、この瞬間をずっと待っていたのだろう。全て吐き出してしまえるこの瞬間を。受け止める準備はできている。

「ゆっくりでいいですよ」

 マリナは静かに頷いた。それから震える声で話し始めた。

「ユキちゃんは、ユキちゃんは……病気だったんです。余命宣告がされるくらいに、重い病気でした」

 俺はマリナの言葉を待った。

「転校したのは、もっと大きい病院に通うためです。高校に入学してから、次第にその頻度は増していって、卒業間際には……入院することになって……」

 鼻声が嗚咽に変わる。鼻をすすり上げながら、ぽろぽろと涙を落とす。

 俺はマリナを抱きしめた。辛いことは百も承知だ。この苦しみは俺だって散々味わってきた。できるなら代わってやりたいが、向き合わなきゃいけないのは彼女自身だ。

 だからといって孤独である必要はない。寄り添う相手がいてもいい。俺はマリナにとってのその相手になろうと、この腕に抱いて、何度も頭を撫でてやった。

 少し治まったところで、マリナは続けた。

「元気に振舞ってましたけど……日に日に弱って、うぅっ、いって……身体もあんなに細く……」

 俺には弱ったユキの姿が想像できなかった。あれだけ気の強かった女の子だ。きっとこの目で見たら、俺はショックでどうなるか分からないだろう。

 だがマリナはその姿を目の当たりにしていた。誰も知らないところで、たった独りで。

「ごめんなさい……これだけはずっと言えなくて……」

 俺はマリナのことを誤解していたのかもしれない。ずっと黙っていたことが、今なら納得できる。

 そう、全て納得がいった。あのときにはすでに死を悟っていたのだ。だからユキは俺と付き合おうとしなかった。好意を示さなかった。いつの日かいなくなってしまったときに、俺を悲しませないために。

 だがな、ユキ。それは逆効果だったかもしれないな。お前のおかげで、俺は人生を棒に振りかけたのだからな。

 そう考えると、あいつは最後の最後までお騒がせな子だった。

 胸が締め付けられる気分だったが、不思議と心に詰まるものはなかった。今ならどんなことでも受け入れられる気がした。

「ありがとう。全部教えてくれて」

 俺は手紙の封を切った。これが最後だ。薄い灯りに照らされて、ユキの言葉が浮かび上がる。マリナと肩を寄せ合いながら、俺は手紙を読み上げた。

 あのとき、ノートを盗んでしまったこと、許してください。

 小説を書いてる人なんて珍しかったから、つい出来心だったの。

 でもそのせいでオカモト君の人生をめちゃめちゃにしてしまったのかもしれないと思うと、死んでも死にきれないです。

 中学生のときに読んだあなたの小説はとても楽しく、夢と希望に溢れていました(なんだか月並みね。でも本当よ)。

 でも、有名になってからのオカモト君はどこか窮屈でした。何か一つのことに執着して、それがオカモト君の想像力を縛り付けているような、そんな気がしました。

 もしその原因がわたしであるならば、もうわたしのことは忘れてください。

 オカモト君はこれからもっと広い世界で活躍するべき人です。わたし一人のために人生を懸けていいような人じゃないです。

 大丈夫、わたしと違ってオカモト君の人生はもっと長いのだから、良い人だってきっと見つかるわ(まあ、わたしほどのイイ女は滅多に見つからないでしょうけどね!)

 わたしのことは、変な奴がいたなぁ程度に留めておくだけで十分です。変にこの世に残されても困っちゃうもの。

 作家になるという夢を叶えたオカモト君には、これからは新しい夢を目指してほしいです。そして、その夢はわたしのいないものであってほしい。

 それがわたしの一生のお願い。

 それじゃ、小説の続き、待ってるからね。

 涙は流さないつもりだった。だがどうしようもなく溢れ出てしまう。ユキの手で書かれた言葉に、雫がぽたぽたと落ちる。

 マリナも泣いていた。声は上げず、ユキの最後の言葉を噛みしめるような、静かな涙だった。

 閑静でちっぽけな広場にただ二人、大切な人へ思いをはせた。

 だが悲しみはこれで最後。これからは俺たちだけで前へ進むのだ。

 別れに充分すぎることはない。だが俺は手紙をしまった。

「そろそろ、行きましょうか」

 夜はさらに深まっていた。

「はい。行きましょうか」

 涙を拭いて、俺たちは歩き出した。

「ああ、そうだ」

 だが俺は出入口で思い出したように足を止めた。

「すごいこと、教えてあげますよ」

 ここのところ知らないことをマリナから教えてもらってばかりだったから、ちょっぴり仕返しがしたかった。

 マリナは身構えた。俺は真剣な彼女が何だかおかしくて、微笑みながら言った。

「ユキとのファーストキスは、この公園なんです」

 愕然、といったところだろうか。マリナは口を開けたまま固まっていた。

 それはたった一度きりの、未熟なキスだった。ユキのことが愛おしくて愛おしくてたまらなくなって、子どもの頃の小さい身体では抑えきれなかった。あの一瞬だけ、ユキの素直な気持ちを感じた。だからこの広場は、俺とユキの思い出の場所だ。

「とっておきは、最後に出すものですよ」

 なんて言ってマリナをからかってから、くるりと背を向けて車に向かった。

「ずっ、ずるいですー!」

 マリナが小走りで続く。俺の笑い声が住宅地に響いた。

 これでもう心配はない。これからは地に足をつけて生きていける。このときはそう思っていた。

 だが少しだけ。あと少しだけ足りなかった。

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