【自作小説】『五速ミッションの選ぶ道』(2/4)

パート2です。

前回はこちら

カクヨムにも投稿しています(あちらは2つに分割されています)。

 梅雨が明け、本格的に夏が来る。湿度が異常に高く、肌にまとわりついてくるような殺人的な暑さの中を、学生は自転車をこいで大学に来なければならない。しかし、それが苦行でしかない。
 通称、桂坂《かつらざか》。商業施設が密集する大通りを曲がると現れる長い坂道で、キャンパスまでの高低差はなんと約七十メートル。その道の険しさは大学に向かうことを「登山」と形容されるほどだ。自転車で上ろうものなら駐輪場に着いた頃には下着がびしょ濡れになり、教室でゼエハア言いながら授業を受けるハメになる。もちろん徒歩でも体力をごっそり持っていかれるし、麓からは三十分かかるから家を早く出ないと授業に遅れる。こんな苦労をするくらいならバスにぎゅうぎゅう詰めになる方がマシだと考える学生は少なくない。
 それまでの僕も照りつける太陽に殺意を抱きながら坂を上っていたけど、今年はひと味違う。車だ。
 三年生になって知り合った夏実のおかげで、クーラーが効いた車内で悠々と学校に行ける。貴族にでもなった気分だ。必死こいてチャリに乗っている学生をすいすい追い越していく優越感がたまらない。
 しかし夏実にとってはそうでもないようで。

「あーもう邪魔! なんで後ろを見ないで飛び出してくるかなあ。よっぽど死にたいのかな。こういうカスみたいな運転するチャリは轢き殺していいって法律できないの?」

 相変わらずハンドルを握りながら凶暴化していた。今ではすっかり運転中の発言に遠慮がなくなっていたし、僕は僕で彼女の暴言に慣れきっていた。

 研究室に行くと、やっぱり蓮花が先にいた。
 あいさつを交わして、いつもの席につく。

「ねえねえ」

「何?」

「最近、間庭くんが夏実ちゃんと喋ってるところよく見かけるんだけど」

 机に身を乗り出して、蓮花はからかうように微笑んだ。

「もしかして……?」

「そんなんじゃないって」

 僕は即座に否定した。まったく、小学生じゃないんだから、女の子と喋ったくらいで何だってんだ。

「ただの友達だよ」

「そーなの?」

 蓮花はまだ疑っていた。この手のゴシップに流されそうなやつなだけある。

「なら、他に彼氏いるの?」

「いねーよ」

 反射的に答えたけど、実際どうだかは知らない。

「でも彼氏とかいそうだけどなー。何か聞かなかった?」

 ふーん、で済ませとけばいいのに、蓮花はやけに踏み込んできた。

「聞かないよ」

「えーなんで」

「なんでって言われてもなあ」

 女の子にそういうこと聞くのは失礼じゃないのか。

「じゃあ蓮花はいるの? カレシ」

 不意打ちだったのか蓮花は目ん玉を丸くした。

「え、そんなにマジになること?」

 しばらく固まっていた蓮花は、ハッとしたように頭を振ると、

「いないよ」

 と、素っ気なく言った。

「そうかい」

 僕は自分の資料に目を落とした。

「ちょっとちょっと」

 しかし蓮花はそれを許さない。仕方なく僕は顔を上げた。

「今度聞いてきてよ」

「何で僕が」

「いいでしょ? よく会うんだから」

 ここまで頼まれたら、仕方ない。

「まあ、いいけど」

 研究室で言われたら、今度はバイト先でも同じことになった。

「聞いたよ。夏実ちゃんに送ってもらってるんだって?」

 真田さんが口いっぱいにニヤニヤを浮かべている。

「ええまあ」

「毎日?」

「いや、木曜だけです。取ってる授業が同じなんで」

 本当は火曜日も送ってもらっているけど、言わなかった。
 真田さんはかみしめるように何度か頷いた。

「知久もちゃっかりしてるな」

「はい?」

 僕の肩に真田さんの手が置かれる。

「ちょっと変わってるけど、いい子だから。大事にしなよ」

「いや、そんなんじゃないですから」

「またまたー」

 ちょっと仲良くなっただけなのに、どうしてこう、色んな人にからかわれなきゃならないんだ。そろそろうんざりしてきた。

「そういや、真田さん車変えました?」

 無理にでも話題を変えた。このところ真田さんはBMWではなく、国産のSUVに乗って通勤している。

「ん? あれは嫁の車」

「じゃあビーエムは?」

「あれはもう手放すよ」

「そうなんですか」

 あんなカッコいい車なのに。ちょっともったいないかも。でも、車好きの真田さんが次に何を選ぶのかも楽しみだ。
 雑談もつかの間、車が入ってきた。しかも二台同時だ。珍しく、それから客が途切れることがなく、接客に追われることになった。でも、都合はよかった。これ以上、夏実との関係を突っ込まれることがないからだ。
 しかし、仕事中も僕はつい考えてしまった。夏実にはボーイフレンドがいるのだろうか。もしいたら? もしいなかったら?
やきもきしていたら、真面目にやれ、と真田さんに叱られた。ごめんなさい。

「夏実はさ、彼氏とかいないの」

 なるべく何気なさそうに聞いた。
 毎週木曜日の授業後は、夏実の車を運転する日になっている。練習を重ねるにつれてぎこちなさも減り、会話する余裕も生まれている。

「どうしたの急に。持つ者の高みの見物?」

 よく見えなかったけど、夏実は怪訝な面持ちだった。

「そうじゃないって。ただ、なんとなく」

「私にいると思う?」

 いじわるな質問だ。どっちともも答えづらい。

「いいよ、正直に。思ったことを言えば」

 突き放すような言い方だった。
 悪いことを聞いたかもしれない後ろめたさがじわりと広がるが、今さら引っ込んでもそれはそれで変だ。

「いない方が不思議」

 僕はなるべく角が立たない言葉を選んだ。

「……」

 しかし夏実は押し黙ってしまった。
 ひと言も会話がないまま、僕はいつものルートを回った。
 大学を出て、山の方へ。坂を上ると民家と畑が見える。押しボタン式の交差点を曲がり、田んぼを右手に望みながら緩やかな曲がり道を行く。途中で左折し、埋め立て場の看板を過ぎると、そこからはちょっとしたワインディングだ。右手に山、左手に崖。スピードを出し過ぎてガードレールを突き破れば、埋め立て場のゴミの一部になる。
 車内は、テンロクのエンジン音とロードノイズ、ボリュームを絞ったクラシックだけが聞こえている。
 ここのきついカーブを曲がっているときが、この車の真価を最も体感できる。でも、今日はなんだか、ちっとも面白くなかった。
 僕の運転が悪かったのではない。何か間違えたら夏実はすぐに指摘してくれる。こんな沈黙は初めてだった。
 山道を出て県道に合流すると、ようやく夏実が口を開いた。

「いないんじゃなくて、作らないの」

 とっさに夏実の方を見たとき、彼女は決心したように息を吸った。

「高校生のとき、同じクラスの彼氏がいたの。よく一緒に遊んだし、何度か家にも呼んだ。でも、いつの間にか三つ上の姉と仲良くなっててね」

 もう一度横を見ると、彼女はひじをついて遠くの景色をぼんやりと見ていた。

「その先は言わない」

「ごめん」

「そう。今のは謝るべき」

 追い打ちをかけるように夏実は言った。冷ややかな怒りが含まれていた。
 僕は背中が冷たくなるのを感じた。取りつくろうにも、何も思いつかなかった。誰にだって思い出したくないことはある。僕は不躾にも、彼女の傷に触れてしまったんだ。
 しかし、夏実は右手で髪をかき乱した。

「いや、喋った私が悪かったよ」

 それからぎこちなく微笑んだ。僕に余計な気を使わせないためだろうか。

「もう結構前のことだし、私もそこまで気にしてないから」

 意識して感情を抑えているのは明らかだった。
 こういうとき、気づかぬふりしてどうでもいいことを言えばいいのか、それとも慰めの言葉でもかけてやればいいのか。僕にはわからなかった。映画の主役に聞いたところで、千差万別だ。僕はブラットピットでも、ケビンコスナーでもない。
 駐車場に戻って車を停めると、夏実はいつものおしゃべり口調で言った。

「ねえ、この車買わない?」

「え、これを?」

「相場よりちょっと安いくらいでいいから。五十万くらいで」

 提案という体で話しているけど、見るからに夏実は買わせる気満々だった。

「手放していいの? 大事な車じゃないの?」

「確かにいい車だけど、でももっと色々な車に乗りたいから」

 こだわりが強そうな夏実が言うのだから、よっぽどいい車が見つかったのだろう。それで、費用を捻出するために僕に売却を持ち出した。

「でも、僕なんかに売っていいの? 別に店に持っていけばいいんじゃないの?」

「そこは、何というか」

 珍しく夏実の歯切れが悪くなった。

「知ってる人に売った方が安心かなって」

 言ってから、夏実は髪を耳にかけた。形のいい耳に僕の視線が留まる。急に頬の周りが熱を帯びてきて、僕は考えるふりをして前を向いた。

「で、どうするの? 買うか、買わないか」

 まだ何も言っていないのに、すでに僕に売る方向で話が進んでいた。こうなったら夏実はもう止められない。

「欲しくもあるし、夏実の大事な車だからってのもあるし」

 それでも僕は決めかねていた。安い買い物じゃない。お金はあるけど、もっと色々検討してから答えを決めるべきだ。

「どっち? はっきりしてよ」

 煮え切らない僕に、せっかちな夏実が急かしてくる。

「わかった。考えさせて」

「そう言うってことは、全くいらないわけじゃないよね?」

「そりゃあ、まあ」

「よし。じゃあ買うってことで」

 交渉成立。

「ええ?」

「どうせ買うつもりだったでしょ? 決めるなら早く決めたいし」

「そりゃそうだけどさあ」

 そんなに車って簡単に買っていいものなのか。あまりにも唐突じゃないか。いつかは買おうと思っていたけど、今すぐってのは。
 なんて、あれこれ逡巡しているうちに、話は引き返せないほど進んでいた。
 あれよあれよという間に必要な手続きが終わり、八月の始めには白いプジョーは僕のものになっていた。

 学期末のテストも終わり、大学は二か月間の夏休みに入った。
 テスト翌日、僕は夏実に呼び出されてサークル棟の駐車場へプジョーを走らせた。授業の時間帯でも自転車は一台も走ってない。ドヤ顔を決めるのはしばらくお預けだ。
 駐車場に着くと、僕は思いもよらない車を目にした。
純白のBMWだった。どっしりと存在感を放つクーペに、御沢夏実が体をもたれている。相変わらず画になる組み合わせだけど、僕はその車に見覚えがあった。
 駐車場には空きが目立ったけど、僕はわざわざビーエムの真横に停めた。

「夏実、それ、もしかして」

「そう。真田さんから買ったの。破格だったよ」

 夏実は愛おし気にボディをすりすりなでた。
 真田さんも車を手放すとは言っていたけど、まさか手放した先が夏実だったなんて。で、夏実は自分の車を僕に売った。上手く循環している。

「すっごい速いのこれ。高速でも無敵」

 聞いてもないのに夏実はウキウキで車の性能を語りだした。
 2013年式BMW435iクーペ。3リッターの直列6気筒エンジンを搭載し、最大出力は300馬力を超えるそうだ。

「やっぱりね、パワーが全てだよ。ジェレミークラークソンも言ってるでしょ?」

「はあ」

 その他ハイテク装備の説明は僕にはさっぱりわからなかったけど、とにかく速い車だということは伝わった。

「で、今日はこれを見せびらかすために呼んだって?」

 夏実は人差し指を左右に振った。

「見せるだけじゃつまらないでしょ? 車は転がさなくちゃ」

 これが最高に楽しかった。
 夏実のBMWが先導し、僕のプジョーが追いかけてのドライブ。夏の暑さから逃れるように、夏実の車は山へ山へと向かい、走るにつれて景色は緑の割合が増えていく。どこへ行くかもわからなかったけど、今ならどこへだって行ける気がした。
 ときどき、夏実は僕を前へ行かせた。曲がりくねる道で、彼女は容赦なく煽ってきた。下手にブレーキも踏めず、僕は死に物狂いでハンドルを回した。
勇気を出して急カーブに飛び込むと、夏実はそれをあざ笑うかのようにぴったり後ろをついてくる。そして長めの直線で、三リッターのパワーでもってあっさり追い越してしまった。手も足も出ない。
 このじゃれ合いにも似たドライブの間じゅう、僕は野性的な喜びを感じていた。
単なる移動手段としての運転を超えた、本能を刺激されるような感覚。ハンドルを通してマシンと一体化し、奥底の本質に踏み込んだとき、そこで見つけたのは獣だった。これこそが車なんだ。彼らも僕と同じ、生きているんだ。

「ああ!」

 僕は叫んでいた。ギアを二速に叩き込むと、プジョーもまた獣の咆哮を上げた。夏実はそれに応えるように、直6の官能的なサウンドを轟かせた。

 時間にして五時間。思うがままに運転した僕らは、二県隣の町にたどり着いていた。
 通りがけのラーメン屋でご飯を食べて、そのまま大学までとんぼ返り。戻ってきたときにはすっかり夜が更けていた。
 サー棟の灯りも、奥のサッカー場のライトも全て消えていた。真っ暗な駐車場で、BMWとプジョーのエンジンが鼓動している。
 車を並べて停め、それぞれのボンネットに腰かけながら、僕らは夏の夜空を見上げていた。

「流石に疲れた」

 頭も体も消耗しきっていて、今すぐにでも寝られそうだった。

「運転、上手くなったね」

「珍しく褒めるじゃん」

「褒めたら悪い?」

「裏がありそう」

 夏実はケラケラ笑った。それがなぜか面白くて、僕まで一緒に笑った。
 僕は勝ち誇った気分だった。憧れの存在だった夏実とこうして笑い合えるなんて、前までの僕には想像もつかなかっただろう。
この瞬間はきっと、一生の思い出になる。そう思うと、次第に切なさが芽生えてきた。
 失いたくない。もっとずっと、夏実と一緒に。こう考えるのは邪だろうか。僕なんかに、そんな資格があるのだろうか。
 彼女が言った昔のこと。前のボーイフレンドの話が胸に引っかかっていた。一度考え始めると、様々な疑問が渦を巻く。
 夏実はこの先もう二度と、男を作るつもりはないのだろうか。だったら一体、僕と夏実の関係は何だろうか。ただの友達? それとも……?

「あれがデネブ。で、あっちがアルタイル。ベガはあそこかな」

 夏実は空を指差した。どこかで聞いたことのある言い回しだ。

「よくわかるね」

「前に同じ空を見たことがあるから」

「同じ空って?」

 僕が聞いても、夏実は空を見上げたままだった。暗がりに見えたその横顔は、どこか悲しそうだった。
 やがて夏実は静かに言った。

「私が彼氏を取られたってことは知ってるでしょ?」

 僕の心臓がドクンと大きく動いた。これから語られることが、これまでにないくらいに重大であるとわかった。
 夏実は上を向いたまま、語り始めた。

「その日はね、部活の合宿があったの。夏休みだったからね。でも中止になったの。理由は、忘れたわ。たまにある話でしょ。その代わり夜まで学校で練習して、それで家に帰ったら、元カレの靴が置いてあった。それから遅れて、二人の激しい声が耳に入ってきたの。親は下の妹を連れて旅行に行ってて、家にいるのは姉だけのはずだった」

 それは、想像を絶する話だった。

「絶好のチャンスだよね。ほんと、マンガみたい」

 彼女からは何の表情も見えなかった。まるで他人の出来事を淡々と語っているようで、不気味だった。

「姉の部屋の電気がついていたけど、声は別のところから聞こえてた。びっくりしたよ。だって、私の部屋からだったんだから」

 夏実は僕の方を向いた。

「身内の喘ぎ声を聞かされるのは、けっこうキツいんだよ?」

 僕は何て返せばいいかわからなかった。夏実は構わず続けた。

「あのときの二人、部屋のすぐ外に私が立っていることにも気づかなかったわ。まさか私が帰ってくるなんて夢にも思わなかったでしょうね。後で私にバレるって言った姉に、そっちの方がいけないことしてるみたいで興奮するって、元カレが言ってたくらいだし。でもなんだか、悪いことをしてるのはこっちのような気分になって、気づかれないように家を出たの。荷物も全部持ってね。それから、自分でもどうしたらいいかわけわからなくなって、学校に戻ろうとしたの。でも近くの歩道橋を渡ってるときにふと思いついて、荷物も全部置いて、柵に腰かけて。それで空を見上げると、あんな風に、夏の大三角が見えた。アルタイルとベガは元カレと姉だから、私がデネブ。太陽系から一番離れた一等星。私だけのけ者みたい」

 夏実は手を空へ伸ばした。

「でもそんなのどうでもよくなるくらい星が綺麗で、ずっと見ていたら、なんだか宙に浮いてるような気分になってきて。それで、ふわっと」

「飛び降りた……ってこと?」

 夏実は頷いた。

「気づいたら病院にいた。家族みんなが私を見ていた。もちろん姉も。でも彼氏はいなかった。家族には部活帰りってことにしておいたの。だから私が家で見たことは誰にも喋っていない。間庭くん以外には」

 ようやく、夏実は笑みを見せた。でもそれは、宇宙で最も哀しい笑みだった。この話が嘘でないと証明するのには十分過ぎた。

「どう? つまらない話でしょ?」

 翌日、バイト先で衝撃的な知らせがあった。

「え、真田さん、転勤なんですか?」

「急に決まってね。残念ながら知久とは来月まで」

 なんと真田さんが同じ系列の別のスタンドに転勤することになってしまったのだ。隣の県だから、下手すると二度と会わなくなる。

「そんなあ。急ですよお」

 真田さんがいないこのスタンドが考えられなかっただけに、ショックは大きかった。

「大丈夫。結構何とかなるから」

 しかし真田さんはちっとも心配をしていなかった。無責任ではない。ここのスタンドを信頼しての言葉だった。
 それからあっという間に時間は過ぎ、気づけば真田さんの最後の出勤の日が終わろうとしていた。僕はたまたまそのときのシフトに入っていて、見送ることができた。
 いくつか荷物を積み込んで、真田さんは車に乗り込んだ。

「じゃあな。俺のこと忘れんなよ?」

「はい。ありがとうございました!」

 別れを惜しむ間もなく、奥さんのSUVが走り去っていった。
 僕はそのテールランプを見送りながら、心に大きなざわめきを感じていた。あまり、いいものではない。
 これから何かが、大きく変わろうとしている。そんな予感がしていた。

 夏休みが明けても、まだまだ暑さは衰えを知らない。
 あれから夏実とは会っていなかった。残りの休みはインターンとバイトでなくなった。後期の授業は一つも被っていなかったし、お互いに車を持っているから大学の行き帰りで顔を合わせることもなくなった。駐車場にBMWが停まっているのもこのところは見かけない。
 車を買ったおかげで、大学へ楽に行けるようになった。便利になったはずなのに、僕の生活はどこか彩りを失ったようだった。

「ね、今度一緒に飲み行かない?」

 昼下がりの研究室で、蓮花は公務員講座のテキストを開いていた。

「へえ珍しい」

 彼女とは大学ではよく顔を合わせていたけれど、この学年になってもプライベートでの付き合いは全くなかった。

「わたしが誘ったらいけないの?」

「別にいけないこたあない」

「じゃあ決まり。いつが空いてるの?」

 僕はスマホを開いた。メッセージアプリの着信が入っている。夏実からだった。

『明日学校まで送ってくれる?』

 車の調子でも悪いのだろうか。通りで見かけないわけだ。構わなかったけど、返事は保留して先に予定を確認した。

「来週の土曜ね。わかった」

 約束を取りつけると、蓮花は自分の手帳にせっせとメモした。

「そういやさ、間庭くん車買ったんだ」

 手帳を閉じるやいなや、蓮花が訊ねる。

「何でわかった?」

 隠すようなことではないけど、ドキリとした。
 蓮花は僕の机の上を指差した。

「だってそれ、車の鍵でしょ?」

 よく見てるな。僕は蓮花に見せつけるように鍵を手に取った。

「なんて車?」

「プジョー106」

「なにそれ」

「フランスの車だよ」

「外車ってこと?」

 蓮花は目を輝かせた。

「いいなー。わたしなんか免許も持ってないのに」

「実際、いい車だよ。めっちゃ楽しいし」

「へー。車の運転って楽しいんだ」

 彼女は眩しそうに、僕を見つめている。

「今度、乗せてよ。間庭くんの車」

「いいよ。ぼろい車だけどね」

「ほんと? じゃあ、明日乗せてもらおうかな」

「え、明日?」

「明日も授業でしょ?」

 それは困った。僕はすぐに答えられなかった。蓮花と同じ授業を取っているから不都合はないけど、それだと夏実と被ってしまう。

「別に、ダメだったらいいよ」

 どうしてそう、不機嫌そうな顔をするんだ。まるで僕が悪いことをしたみたいじゃないか。

「いや、ダメじゃないんだけど」

 僕はスマホに目を落とした。夏実のメッセージにはまだ既読もつけていない。

「あさってとかでもいい、かな?」

 恐る恐る訊ねると、蓮花は大げさに首を傾げた。

「今週は明日しか学校行かないから。間庭くん、明日用事あるの?」

「いや、何も」

 また反射的に答えてしまった。ないわけじゃないのに。

「へー」

 蓮花は少し伸びてきた髪の先を弄りだした。
 どうすればいいのだろうか。ここで断ったら絶対気まずいし、夏実の頼みもあるし。
 そうこうしているうちに、また夏実から着信があった。

『どうなの?』

 まずい。この人は待たされるのがとにかく嫌いなんだ。

『明日の何時?』

 慌てて打ち込むと、すぐに返ってきた。

『二限』

 僕の授業も二限からだ。頭を抱えたくなった。
 どっちかを断らなければならなくなった。僕はこういう二択に弱い。
 蓮花とはいつでも会える。次の機会なんていくらでもあるはずだ。夏実とはこのところ会ってないし、色々聞きたいこともある。
 でも、面と向かって言われてしまったからには断れない。夏実には悪いけど、この一回だけにするから。
 僕はスマホに向かって謝りながら、メッセージを打ち込んだ。

『ごめん、明日は送ってけない』

 返事が来るまでには時間がかかった。

『わかった』

 その一言だけ。何でもないはずなのに、文字だけを見ると色々勘ぐってしまう。怒っているようにも思える。

『次は送ってくから
また言って』

 僕は無駄なあがきにも思えるフォローを送った。

『(よろしく)』

 というスタンプだけが送られてきた。取りつく島もなかった。
 いや、きっと大丈夫だろう。こんなときがたまにあるくらい、夏実もわかってくれる。
 僕は心の中で何度も言い訳をした。それだけじゃ誰にも何も伝わらないのがわかっていても、なお自分を慰めるために。

 次の週は夏実を乗せて大学へ行くことになった。彼女のBMWはパワステの調子が悪いとか何とかで入院中らしい。
 頼みを断ったことには謝ったけど、蓮花を乗せたことは伏せた。夏実の方から聞かれることもなかった。
 久しぶりに会ったというのに、夏実は助手席で物憂げに頬杖をついていた。何もしゃべっていない。

「最近、どう?」

「まあまあかな」

「就活やってる?」

「やってない」

「え、じゃあ卒業したらどうするの?」

「どうするんだろうね」

 どこか他人事のようだった。

「何も決めてないの?」

「そう、ね」

 夏実は窓の外を眺めたまま言った。

「もしダメなら間庭くんに世話してもらうわ」

 いつもの冗談を言うような口調とは違って、低い声だった。

「ばっ」

 不意に放たれた爆弾発言に、頭が沸騰しそうになった。

「バカ言うなって。プジョーとビーエムを抱えて生活しろなんて無茶な話だよ」

「冗談。そこまで嫌がらなくてもいいじゃん」

 じゃあ、マジな言い方をするなってんだ。

「悪かった」

 僕が適当にあしらうと、夏実が今日初めてこっちを向いた。

「ほんとに悪いって思ってるの? 何が悪いか分かってるの?」

「ちょ、どうしたんだよ急に」

 こんなときに、目の前に遅いチャリを追い越そうとした馬鹿野郎が飛び出してきた。動揺していた僕は反応が遅れ、急ブレーキを踏んで一気にハンドルを切った。車体が大きく揺れ、カップホルダーからペットボトルが落ちた。

「……」

 夏実はそっと拾って元の場所に戻した。僕の運転には何も文句を言わなかった。あのときと同じだった。彼女は不機嫌になると、口数が減る。
 でも前と違うのは、何が原因かわからないことだった。理由もなく怒りをぶつけられているようで、あまりいい気分ではない。

「何かあったの?」

「いや、間庭くんはわからないと思うし、今のは忘れて」

 言うだけ言っておいて、夏実は何もなかったことしようとした。僕はそれがなぜか気に食わなかった。

「わからないってなんだよ。なんだよその言い方」

 傲慢だったのかもしれない。彼女の過去を知った今、僕には他のどんなことでも知る権利があると思い込んで、嫌がる彼女の内面にずけずけと踏み込もうとした。

「もういいから」

「そんな。どうしたんだよ」

「もういいって言ってるでしょ」

「よくないよ。何かあるなら教えてよ。あのときみたいに」

 夏実の目が見開かれる。
 やってしまった、と思ったときには遅かった。
 彼女は口元を震わせ、けたたましく、叫んだ。

「いいから!」

 こればかりは、効いた。ずしんと、腹の底に重いパンチを食らったみたいだった。
 駐輪場脇の信号で止まったところで、夏実は荷物を手に持った。

「ここで降りる」

「もうすぐ着くよ」

「こっからの方が近いから」

 夏実は構わずドアを開けた。信号が青に変わる。彼女は俯いたまま車の前を通って歩道へ移った。

「夏実!」

 呼びかけても夏実は意に介さない。窓を下ろそうとしたけど、こんなときに限ってパワーウィンドウが動かない。フランス車め。
 うじうじしていたら、後ろの車にクラクションを鳴らされてしまった。僕はしぶしぶ車を出した。あっという間に夏実を追い越した。
 僕はサイドミラー越しに彼女の姿が小さくなっていくのを見ていた。そのせいで、自分の車がセンターラインをはみ出していたことに気づくのが遅れた。前を向いたとき、目の前に巨大なトラックが視界いっぱいに広がっていた。

「やっ……」

 死んだ。
 最悪の結末が頭をよぎった。パニックになった僕は目をつぶった。
 しかし、いつまでも衝撃は来ない。目を開けると、車は元の車線に戻っていた。無意識に回避行動を取っていたらしい。
 駐車場にたどり着くと、一気に力が抜けた。絶対にぶつからない車の話が、今なら信じられた。
 車から降りてもまだ心臓が激しく動いていた。
僕はつい夏実の車を探してしまった。鉛色の分厚い雲の向こう側で今も輝いている星々のように、見えないだけで、どこかにあるんじゃないかと。でもそれは無駄な希望だった。
 空を見上げても、星なんてどこにも見えやしない。

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