【映画感想】『カッコーの巣の上で』自由を求めた男たちの破滅と希望の物語

楽な抑圧か険しい自由か。

意志を持った人間として生きる私たちは時に、この問いに直面します。本人がそれに気づいていなくとも。

1975年公開の『カッコーの巣の上で』は、この問いについて考えさせられる映画です。

私がわざわざ書かなくても、この映画についての評価は世界中に溢れています。ですから私はメインストリームから外れている自覚の元に、好きなように書かせていただきます。

ネタバレがあります。ご注意ください

目次

基本情報

原題

One Flew Over the Cuckoo’s Nest

制作年

1975年

監督

ミロス・フォアマン

主な出演者

ジャック・ニコルソン(マクマーフィ)

ルイーズ・フレッチャー(ラチェッド看護婦長)

ウィル・サンプソン(チーフ)

ブラッド・デゥーリフ(ビリー)

クリストファー・ロイド(テイバー)

受賞

第48回アカデミー賞

・作品賞
・監督賞
・主演男優賞
・主演女優賞
・脚色賞

あらすじ

ケン・キージーの同名ベストセラー小説をジャック・ニコルソン主演で映画化。刑務所での強制労働を逃れるために狂人を装い、精神病院に入った男が巻き起こす反抗とその騒動を描くヒューマンドラマ。

https://filmarks.com/movies/9986

評価と簡単な考察

個人的な評価

85点/100点としておきましょう。

名作であり、自信を持って人におすすめできる作品です。

フィルマークスのアカウントでは3.9点/5.0点としております。

アメリカンニューシネマにしてはハッピーエンド?

本作のキーワードを上げるなら一つは必ず「自由」でしょう。

アメリカンニューシネマといえば反体制的な作品で、結末は体制によって破滅することが多いですね。

しかしどうでしょう。『カッコーの巣の上で』はバッドエンドなのでしょうか。

同じ「自由」というキーワードで共通する『イージーライダー』と比較してみましょう。(しかもジャックニコルソンが出演しているのも同じ)

イージーライダーの結末はあまりに有名です。自由を求めて旅をした若者の行き着く先は破滅でした。

カッコーの巣の上での結末も同じようなものですが、イージーライダーとは違って希望を感じさせる終わり方になっています。

この違いはなんでしょうか。

それは、たとえ主人公が破滅したとしても他の人物がその意志を受け継いで自由を獲得したからです。

この意味では本作はハッピーエンドでしょう。

しかし、手放しで喜べるようなハッピーエンドではないところが、この映画がアメリカンニューシネマに分類される理由であり、心に残る理由なのでしょう。

チーフの物語でもある

本作はマクマーフィの物語であると同時に、チーフの物語でもあります。

自ら抑圧され管理下に置かれることを望んだチーフは自分自身を小さいと言います。作中で際だった大男が言うセリフですから説得力が違いますね。

何かしら疾患を持つ周りと異なって、チーフだけは精神病ではありません。それなのに耳が聞こえないと偽って生活をしていました。
マクマーフィが院長に「お前こそ人をダマしてないか?」と詰められる場面がありますが、これはチーフにも当てはまりますね。
チーフに注目して観賞すると、このようにマクマーフィと対比的になっていることが分かります。つまり影の主役とも言い換えられます。

やはり影の主役だと言わんばかりに、彼は映画のラストを派手に締めくくりました。もう小さい自分ではありません。マクマーフィによって主体性を取り戻し、大きい自分に変化しました。非常に分かりやすいですね。

映画を初めに巻き戻し、チーフに注目して観賞すると、マクマーフィに感化されて変化していく有り様が丁寧に描かれていることがわかります。

作中を通して変化し、成長する

この過程が描かれている以上、主役と言っても過言ではないでしょう。

ラチェッドはチーフの正体に気づいていた?

バスケをする場面で婦長がチーフを上から眺め、チーフがそれを見上げるカットがあります。その後、クリスマスの騒ぎがバレた場面でも、婦長の視線がチーフに向けられるカットがあります。開け放たれた窓の次に注目したのはチーフでした。マクマーフィではありません。そして微妙に顔を俯けます。何の意図もなしにこんなカットを挟みませんよね。

ここで考えられるのは、もしかして婦長は初めからチーフが演技をしていたことに気づいていたのではないかということです。

これは答えがある問題ではありません。が、私としてはバレていた方が面白いです。

婦長がはじめから気づいていたとすると、マクマーフィには手を焼くのに対して、チーフには何もしないのはおかしいはずでしょう。しかし、彼が病院には特に何も害にならない存在であると考えると理屈が通ります。

自発的にしろ、チーフは病院の規則に従って生きています。他の患者と何も変わりません。主体性を失った状態でいる以上、婦長が何もする必要はありません。

ただ、マクマーフィが脱走しかけたあの場面においては、婦長も危機感を抱いたことでしょう。開いた窓と上着姿のチーフを見て、マクマーフィと同じように逃げようとしたと考えるのは自然です。

チーフを見て顔を下に向けたとき、婦長は何を思ったでしょう。「やっぱり!」なんて思ったのでしょうか。それにしてはもの哀しい表情だったのが気になりますね。反抗されるのを恐れたとも取れます。色々考えてみるのも面白そうですね。

何にせよ、あのまま病院にいたらチーフにも何かしらの処置が施されていたかもしれません。

まとめ

他の患者たちは自ら望んで抑圧された環境に身を置いていました。この映画ではそれが間違っているように描かれていますが、現実においては必ずしもそうはいきません。

職場や学校、あるいは外にいても、何かしらの規則に縛られます。それに従うのは楽ですし、周りの迷惑にもなりません。

抑圧されることは、楽なんですよね。

もし私自身が似た環境に身を置かれたとき、マクマーフィのように反抗できるかと言われると自信を持てません。

ですが自由を求める心は決して忘れたくないですね。これを失ったとき、我々は人間の形をしたただの動物と化してしまいます。

自分を見失いそうになったときは、この映画を観て熱を取り戻したい。

そう思えるほど、長い人生の中で常に傍に置いておきたい名作でした。

下手な感想文で締めといたします。では、これで。

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