パート3です。
前回はこちら。
「もう三年生も残り半分かあ。間庭くんは就職するの?」
蓮花は二杯目のサワーに口をつけた。少しペースが早い。
約束通り、僕と蓮花は夜の街で飲んでいた。気を使わずに済むからという蓮花のリクエストで、大衆居酒屋に入った。
パンの耳の味がする熱燗を飲んでから僕は答えた。
「そうだね。今さら教員受けるわけにもいかないし」
文学部の連中の体感にして半分が公務員志望だったけど、僕は何一つその手の講座を受けていなかった。特に理由はなかった。
「そっちは公務員一本?」
「うん」
蓮花は自信満々だった。分厚いテキストを何冊も抱えて勉強している姿が目に浮かぶ。あれだけ真面目に勉強しているなら、余裕で試験に受かるはずだ。
ボックス席が並び、奥には宴会用の座敷がある店内はほぼ満席だった。ほとんどが大学生だろうか。賑やかな笑い声がそこかしこから聞こえる。バイトの店員は忙しそうに席を行ったり来たりしていた。
刺身の盛り合わせが運ばれてくると、蓮花は僕に断ってからまぐろの赤身を取った。
「どうだった? 大学生活」
「まだ三年生だけど?」
「そんなこと言ってたら、すぐ四年生になっちゃうよ?」
醤油をしっかりつけてから、まぐろを口に放り込んだ。
「それに、四年になったらもう授業もないし」
蓮花の言う通りだ。暇な文学部は、人並みに真面目に授業を受けているだけで、三年生のうちに単位を取り切れる。四年に上がってから、就活と卒論以外にすることがない。右も左もわからないままオリエンテーションを受けていた一年生の頃が、まだ昨日のことのように思える。
「なんだか、無駄に過ごしてたような、充実していたような」
「え、どっち?」
「どうかな。充実してたのかな、きっと」
「ふーん。じゃあ、一番楽しかった思い出は?」
「一番?」
思い出せそうとすればいくらでも思い出せる。そのどれもがモノクロで、すぐに消えてしまうものだった。
でも、夏実との思い出だけは違った。数は少ないけど、どれも鮮明に思い出せる。手で触れるくらいに、ハッキリと。
夏実のことを考えると、胸が苦しくなる。思い出の中の僕が笑顔になればなるほど、現実の僕が締め付けられる。罪悪感でいっぱいになる。
しばらく経っても返事がない僕を、蓮花は心配そうに見つめていた。
「思いつかないの?」
「いや、どうかな」
こういうとき、僕は間に合わせのことしか言えない。
「まだ卒業したわけじゃないし、これからもっといい思い出があるかもしれない」
しかし予想に反して蓮花はニッコリ笑った。
「そうだよね。まだ終わってないよね」
グラスを一気に飲み干して、力強く置いた。
「わたし達もまだまだこれからだよ」
「え? どういう?」
蓮花は立ち上がると、僕の腕を掴んで席から引きずり出した。
「二軒目行くよ!」
「はあ」
二軒目のバーを出たときには日付が変わっていた。夢中になって話し込んでしまった。十月にもなると夜は肌寒い。うっかり薄着で来てしまったことを後悔した。
飲み屋街の狭い道を二人で歩いた。蓮花は両手に息を吐いている。淡いブルーのワンピースに、黒のニットだけでは寒そうだ。
「寒いね。もう手が冷たいや」
ためらいもなく蓮花は両手で僕の手を取った。彼女の手は確かにひやりとしていた。
「間庭くんの手は、あったかいね」
自分の体温と僕の体温を混ぜ合わせるかのように、蓮花は両手で僕の手を挟みこんでこすっている。
その奇妙な動きをじっと眺めていたら、顔を上げた蓮花と目が合った。その大きくて丸い瞳はうるんでいて、僕は不意にドキッとした。それに呼応して、蓮花の目がさらに大きく開かれる。
「間庭くんってよく見ると、綺麗な目してる」
「言われたことないや」
「え、それはおかしいよ。絶対みんなそう思ってるって。普段眼鏡してるからわからないだけで」
「そうかな」
「ちょっと眼鏡外してみてよ」
「いいけど」
言われた通り、僕は眼鏡を外した。ぼやけた視界の中でも、蓮花が微笑んでいるのはわかった。
「うんうん。間庭くんはコンタクトにした方がいいよ」
「ありがとう」
「ちょっと、眼鏡貸して」
「いいよ」
渡してやると、蓮花はおもちゃをもらった子供のようにはしゃいだ。ちゃっかりかけてるし。
「どう? 似合う?」
「賢そうに見える」
蓮花はその場をくるくる回り、ポーズまで決めている。
「ふふーん。あ、ふらふらする」
「ほら、返しなって」
彼女は眼鏡をつけたままふらふらと寄ってくると、つまずいた勢いで僕に抱きついてきた。
「ほら言わんこっちゃない。危ないよ」
立たせてやっても、蓮花はまだ何か企んでそうな笑みを湛えている。
「かけたげる」
「自分でかけるって」
「いいからいいから」
蓮花は眼鏡を外し、両手で僕の顔にかけた。はっきりとした視界が戻ってきたと思ったら、強い力で頭が引き寄せられた。
一瞬、平衡感覚を失った。気づいたときには、唇に柔らかい感触が残っていた。胸の奥に、甘くて苦い味が広がっていく。
蓮花は俯いて黙っていた。体は震えていた。僕が先に動くのを待っているようだった。
僕がするべきことは、蓮花の体を抱きしめて、もう一度熱く口づけをして、その後……。想像するのも恥ずかしいけど、とにかく今はそういう雰囲気なんだ。
でも僕はその一歩が踏み出せなかった。心がブレーキをかけている。
このまま行ったら、後戻りできないような気がした。あまりモテない僕にとって願ってもないチャンスが目の前にあるのに、それを取るのが正しいのかどうかわからなかった。蓮花のことは嫌いじゃないし、つき合えたらきっと自慢できる。
でも、この期に及んで、僕は夏実のことが頭から離れなかった。このことを知ったら夏実がどんな顔をするか、そればかりが気になってしまった。
「間庭くん?」
待ちかねた蓮花が不安げに僕を見た。心臓が飛び出てしまいそうだった。
「ごめん、心の準備が、まだ……」
カチコチのロボットみたいな声になってしまった。
「ぷっ」
なぜかそれが蓮花に刺さった。
「くっ、あっははは! なにそれー! 硬くなりすぎだよー!」
腹まで抱えて大笑い。一気に周りの空気が弛緩した。
「間庭くんってさ、変なとこ真面目だよねー」
蓮花は笑いながら僕の背中をバンバン叩く。
ま、そういうとこがいいんだけど。と蓮花は付け加えた。
「悪かった」
「ううん。全然。わたしも少し飲み過ぎたのかも」
蓮花は軽快な足取りで先を行く。
「今日は帰ろ。もう遅いし」
街灯に照らされた蓮花の笑顔は、果たして本物なのか。僕には確かめようがなかった。
これでよかったのだろうか。僕はとんでもない間違いをしたのではないか。不安で飲み込まれそうだった。
そんな僕とはまるっきり対照的に、不自然なほどに、蓮花は明るく振る舞っていた。
バイト先の控室で、僕は新しい店長に頭を下げた。
「すみません、明日のシフト出られなくなって」
「なんですぐ言わないの?」
店長はいら立ちを隠さない。
「急に予定が入ったんで」
「代わりの人いるの?」
椅子にふんぞり返り、デスクを指でとんとん叩いている。この様子だと、認めてはもらえなさそうだ。
「いや、みんなダメだって」
「じゃあ出てもらうしかないよね」
店長は芝居がかったため息をついた。
「あのね、ホウレンソウは社会の常識だからね。君、もう就職でしょ? こんな前日になって言いに来るなんて、会社じゃ通用しないから」
高圧的な物言いだった。でも、言っていることは正しい。
「……はい」
僕は何も言い返せなかった。
黙りこくっていると、ここぞとばかりに店長の嫌味が炸裂した。
「最近ボーっとしてることが多いんじゃない? 頼むよ? 仕事も雑だし。このところ売り上げも落ちてるんだから、バイトにも頑張ってもらわないと困るんだよ。学生だからって何もしないで許されるわけじゃないからね?」
「……はい」
何もそこまで言うことないのに。
店長は言うだけ言って、話は終わりだと言わんばかりに自分の業務に戻った。
表に戻っても、気分は最悪なままだった。真田さんならふたつ返事で許してくれたのに。
新しい店長が来てから、バイトに来る度に憂鬱な気分になる。これまで真田さんがフォローしてくれていたことが全部自分に返ってきた。不自由なことも増えた。真田さんなら、真田さんなら、と考えることはしょっちゅうだ。
でもそれは、真田さんだからの話だ。新しい店長は何も間違ったことはしていない。僕が甘えていただけだ。わかっていても、それを反省させられるのは辛かった。
ほんと、色々どうして上手くいかないのだろうか。
蓮花と飲みに行ったあの日以来、彼女を研究室で見ることはなかった。一週間経っても、二週間経っても、一度も研究室には現れない。授業で姿を見ることはあっても、彼女は徹底的に僕を無視した。
あの一件を彼女がひどく気にしているのはよくわかる。そんな様子を見せられたら、こっちまでイケないことをしたようで、胸が変な鼓動を始めてしまう。
相変わらず夏実は冷たいままだ。車もまだ直っていない。送って行こうかと連絡しても、拒否される。
気持ちが浮かないまま十一月が終わり、十二月も中旬に差しかかろうとしていた。
事件が起きたのは、退屈な授業を終えた僕が気まぐれに中央食堂に顔を出したときだった。
『いい加減にして!』
入り口を前にして、空気が割れるような怒号が耳に入ってきたのだ。僕はその声をよく知っていた。今となっては懐かしい。
いや、こんな場所でこの罵声を聞いてはならない。僕は青くなって食堂に飛び込んだ。
券売機の前で、夏実と数人の男子学生が言い争いになっていた。いや、正確には夏実が一方的に暴言を浴びせていた。
「さっきから聞いてれば、くだらないことぺちゃぺちゃと。あんたらは口から生まれてきたの? 後ろで待ってる人がいるってのに、どういうつもり!? 自分が偉くなったとでも思ってんの?」
「夏実、夏実! おい、やめろって」
僕は慌てて止めに入った。自分でも理由はわからなかった。ほとんど直感だけど、あえて理由をつけるなら、夏実の様子は自分にも責任の一端があるように感じたからだ。
夏実は僕に気づくと、うろたえた表情を見せた。しかしすぐに牙をむいた。
「間庭君はほっといて」
「ほっとけないって。とにかく落ち着いてってば」
彼女の矛先から外れた学生たちは、どさくさに紛れて立ち去ろうとした。
「待て! 話は終わってないから!」
それを夏実は見逃さない。学生はめんどくさそうに足を止めた。頭のおかしい人に絡まれたと、げんなりしていた。
騒ぎに気づいた野次馬が少しずつ集まってきた。早いところこの場から離れなければ。僕は今にも殴りかかりそうな夏実の腕を掴んで押さえた。
「わかったわかった。わかったから落ち着いて」
「いいや、こいつらは一度本物の痛みを味わわないと分からない」
「ダメだよそんなことしたら」
「私はね、見てくれだけ飾って中身はスカスカの腑抜け野郎が地球上で一番キラいなんだよ!」
いけない。このままだととんでもない暴言を吐いてしまう。
「いいから黙って!」
「黙るもんか」
荒ぶる牛を押さえつけているみたいだ。力負けしそうになる。腕だけでは足りず、僕はとうとう夏実を羽交い絞めにした。それでも夏実は僕を引きずってでも学生たちに向かおうと拳を握った。
それでも体格の差が勝り、僕は彼女を入り口まで引きずり出すことに成功した。しかしここでまだ夏実は踏みとどまる。油断も隙も無い。
巻き込まれた学生は、自分らが安全圏にいることがわかったのかスマホを構えた。SNSにこの映像を投稿して、大量のいいねを狙っていることだろう。彼らにとっては、この手の騒ぎは格好のネタだ。その様子が火に油を注いだのか、夏実はこれまでにない怒りを発揮して叫んだ。
「思い知れキノコ頭! お前らなんかこの先も一人じゃ何もできない能なしのクズで、SNSの中だけでイキって底辺どもと傷をなめ合って死ぬときは誰にも悲しまれないカスみたいな生涯を送るんだよ!」
学生たちはそれを笑って流していた。自分のことだとは思っていない様子だった。
まだ何か言おうとする夏実を、僕は渾身の力で食堂から引きずり出した。これ以上は喧嘩以上の問題に発展しかねない。
外にも野次馬が集まっていて、事態を把握しようと僕らに好奇の目を向けていた。僕は無視して、とにかく夏実を遠くに連れ出すことに集中した。おもちゃを買ってほしいと駄々をこねる子供に手を焼く母親の気分だった。
建物を出て、大学の銘板の前に来たところで夏実が再び暴れ出した。
「放してよ!」
仕方なく僕は彼女を解放した。いつ逃げ出してもいいように警戒は怠らない。
「喧嘩なんて流行りじゃない。何があったの?」
尋常じゃない怒り方をするくらいだ。ただ事ではない。暴力か? セクハラか?
「あいつらが券売機の前でおしゃべりしてて一向にどかないから、イライラして」
開いた口が塞がらないというのはこのことだ。実にくだらない理由だった。ただの言いがかりもいいところだ。呆れかえって逆立ちができる。
「そんなの無視すればいいでしょ?」
「だからって、目の前で黙って見過ごすわけにもいかないでしょ?」
夏実はまだ殺気立っている。
「あんなバカな連中、ほっとけばいい。いちいち突っかかってたらキリがないよ」
「……ああもう!」
言い返せなくなった夏実は、あろうことか僕を殴った。グーだった。これには僕も頭に血が上るのを止められなかった。
「夏実ッ!」
流石に反省したのか、夏実は急に静かになった。気持ちが切れたのか、覇気が一気に霧散したようだ。
「……もうほっといて」
それはこっちが心配になるくらい、か細い声だった。
「ほっとけるわけないよ」
「いいから。今は喋りたくない」
夏実はずぶ濡れの捨て猫みたいな足取りで歩き出した。僕は夏実の手を取った。
「ダメだ。どこにも行かせない」
「家に帰るだけだから」
「じゃあ僕が送る」
「じゃあそうして」
車を出すと、夏実は言った。
「あの道を通ってから帰って」
練習で何度も通った山道だ。しかしあれは。
「逆方向だよ」
「いいから」
従うしかなさそうだった。
慣れ親しんだ道を、僕はいつより丁寧に、ゆっくり走った。夏実に教わったことを総動員して、なめらかに。寝ているライオンが起きないように。
「止めて」
出し抜けに夏実が言った。
「どこに」
「いいから止めて」
僕は出来るだけガードレールに寄せて車を停めた。すぐ下は崖だ。
「何のつもり?」
「このまま崖から落ちて死のうよ」
正気とは思えなかった。
「テルマルイーズじゃないんだから」
「冗談はいいから。早く」
「ダメだよ」
「ほら進んでないよ。クラッチもまともにつなげなくなったの?」
僕の脳裏には夏実の過去がフラッシュバックしていた。空は、今にも落ちてきそうなほど低かった。
「やめろ。本気で死ぬ気?」
「わからない」
「何だよそれ」
「自分でもわからない。今、私が何をしたいのか」
夏実は地に足がついていなかった。ほっといたらどこかに行ってしまいそうで、思わず僕は彼女の手首を掴んでいた。
「ここにいてもダメだよ。帰ろう」
「急に積極的になって、どうしたの? フラれたの?」
「バカ言わないで。話なら聞くから」
彼女は本気にしていなかった。真剣な僕を鼻で笑った。
「お前が心配なんだよ」
「口先だけでしょ」
「そうだとしても、心配してることに変わりはないよ」
「ふうん」
夏実は何度か大きく頷いた。
「心配してるなら、この手を放して」
「それはダメ」
僕は音がするくらい夏実の手を握った。彼女の顔が痛みでゆがんでも構わなかった。
「頼むよ。どうしたんだって。何か悩んでるなら聞くから」
「別にいい」
聞いても答えてくれないときは、彼女には言いたくない何かがある。火傷をするのはわかっていても、僕は踏み込んだ。
「それは僕が、違う女の子を隣に乗せてたから?」
ぴくりと、彼女の体が跳ねた。
「……ちがう」
この反応を見るに、図星だった。
「謝るから」
「違うって言ってるでしょ。何でそんなことを私が気にするの。自惚れないでよ」
夏実は手を振りほどこうとする。僕はそれを許さなかった。
自惚れているのは正しい。僕が夏実の頼みを断ってまで蓮花を乗せて、そのためにひどく悩んでいたのだとしたら、嬉しいのは否定できない。しかし、今はそれどころじゃない。
「夏実、彼女はただの」
「間庭君のすてきなカノジョでしょ? 知ってるよ。授業一緒だったことあるし」
夏実は表情一つ変えない。
「あの子可愛いよね。いいと思う」
「違うって」
「何が違うの? キスなんかしておいて」
耳を疑った。彼女、どこまで知っているのだろうか。
「蓮花から聞いたんだね」
「どうかしら」
同意ってことだ。
「僕が悪いんだよ。僕が押しに弱いばかりに、断れなくて」
こんなときにまで、僕はみっともなく言い訳をしてしまう。この態度のせいで、夏実が怒っているのに。
「知ってる。与えられたら何でも食べるもんね、間庭君は。犬みたい」
夏実は吐き捨てるように言った。
「目の前にごちそうがあるのに、よしと言われるまでいつまでも手を出さないのもそう。ほんと、かわいいよね、間庭君は」
語尾はわずかに湿っていた。
僕は何も言い返せなかった。夏実の言うことはいつも的を射ていて、反論の余地がない。それが悔しくて、僕はついムキになってしまった。店長に言われた鬱憤を晴らすように。
「ああそうだよ。僕はつまらない男だよ。悪かったね」
「おかげでいい迷惑」
売り言葉に買い言葉だ。もっとかけるべき言葉があるってのに。
それきり車内は水を打ったように静まり返った。
手首から彼女の脈が伝わっていた。一回ずつ、一回ずつ、生きていることを確かめるような大きくて力強い鼓動だった。
僕はそっと、手を放してやった。すると、逆に夏実の方から手を握ってきた。シフトレバーの上で、重ね合わされる。そのまま、ニュートラルから一速へ。
「帰るよ」
夏実はうんともイヤとも言わなかった。その代わりに、
「ほんとに、なんでこんな人を好きになっちゃったんだろ」
声にもならないつぶやきを漏らした。それは僕の耳には届かず、エンジンの音にかき消された。
夏実のアパートに着いたとき、図ったように雨が降り出した。一人にさせるのが心配なことは何度も言ったけど、夏実は首を縦には振らなかった。
僕はしばらくアテもなく走った。大粒の雨が小さいボディに打ちつける。タイヤが水を跳ね上げる音が車内に響き渡る。聞こえないから音楽は切った。
どんなに雑にアクセルを踏んでも、この車は応えてくれる。どんなに雑にブレーキを踏んでも、踏んだとおりに動いてくれる。だから自分が無意識に抱えている感情が、車の挙動となって現れる。今の僕はすごく、迷っていた。
僕は、彼女をどうしたいのだろうか。
この気持ちは、一体何なんだろう。今すぐにでも暴れ出しそうな、この胸の高鳴りは、一体何なんだろう。これを、たった一言で片づけてしまっていいのだろうか。
いくら走っても答えは出なかった。行き先も考えなかったせいか、気づいたら隣の県まで来てしまっていた。
燃料計が残り四分の一を過ぎていた。どこかで給油をしなければ。
通りをしばらく進むと都合よくセルフのスタンドを見つけた。
そこは給油機が四つのこぢんまりとしたスタンドで、天気のせいもあってか閑散としていた。しかしそこで僕は思いがけない顔を見た。
「あ、真田さん!」
そうか、ここは僕のバイト先と同じ系列のスタンドだ。
「おー知久。元気してた?」
店内入り口で暇そうに立っていた真田さんは小走りでやってきた。
「お、ちゃんと綺麗に乗ってるじゃん」
今となっては僕の車である白いプジョーを懐かしそうに眺めている。
「店長は結局何に乗り換えたんですか?」
「あれだよ」
真田さんが指差した店の隅っこに、赤い車が止まっていた。これまた古そうな車で、どこもかしこもカクカクしていた。
「なんて車ですか?」
「アルファロメオ155だよ。一度は乗ってみたくてね」
一度は聞いたことあるメーカーだった。確か、イタリアの車だったか。またしても数字がついた車だ。外国の車はみんなそうなのか。
「カッコイイですね」
直線的なデザインから男らしい力強さを感じる。細長いヘッドライトは、不思議な愛嬌があって、角度によって違った表情を見せる。あれを運転したらどうなるのだろうか。無骨そうな見てくれだけど、きっとゾクゾクするような熱さがあるに違いない。
「今度乗せてくださいよ」
「いいよー」
ああ、これだ。このフランクな返事が恋しかった。何でも許してくれそうな、この響きが。
「そういや、夏実ちゃんは元気?」
「……それは」
いつか聞かれると思っていたけど、いざそうなると胸の痛みが抑えられない。
年の功なのか、真田さんはすぐに事情を察した。
「何か、あったんだね」
僕は夏実との間に起こったことを包み隠さず話した。黙ってたってどうせ真田さんには全部バレる。
夏実とドライブをして、星を見上げて、彼女の辛い過去を聞いた。蓮花の誘いにほいほいついていって、彼女の気持ちをないがしろにした。食堂での騒ぎと、車内での気まずい沈黙。
真田さんは思いの外深刻に捉えてはいなかった。うんうん、青春だねーとでも言いたげに頷いている。本当に人の話を聞いていたのかと疑いそうになるけど、真田さんがそんなことをするはずがなかった。
「いやー、夏実ちゃんとそこまで仲良くなってたなんてね。知久も隅に置けないよ」
「そんな。からかわないでくださいよ。こっちは真剣なんですから」
「ごめんごめん」
真田さんは苦笑してから、こっちを向き直った。それまでと違って真摯な目をしていた。
「実はね、飛び降りた彼女を見つけたのは、俺なんだ」
「それって……」
「たまたま夜中に車を走らせていてね。そりゃもうびっくりしたよ」
こんな偶然があるのか。真田さんが夏実の命の恩人だなんて。だって、今までそんなこと、一度も言わなかったから。
「その後、前の店に謝りに来た夏実ちゃんは、そこで車に興味を持ったんだ」
真田さんの口から語られたのは、夏実の本当の姿だった。
「それはもう我も忘れてのめり込んでたよ。こっちが引いちゃうくらいにね。でも、熱意は本物だったから、俺も色々教えたよ。あの子は覚えが早いから、つい楽しくなってね」
真田さんの言葉が憂いを帯びた。話が核心に入ることを意味していた。
「でも、心配してたのは、夏実ちゃんが、何というか、無理してるんじゃないかって」
「と、いうと?」
「あの子の傷がまだ癒えてなくて、それをごまかすために、車に向きあっているんじゃないかって。彼女何度も言ってたよ、車なら決して裏切らないって。確かにそうだね。車は嫁と違ってどこまででも素直だ」
今のは笑うところなのだろうか。真田さんは続けた。
「でも、それだけじゃダメなんだろうね。根本的な解決にならない。彼女を支えてやれる人が必要なんだよ」
「真田さんは違うんですか?」
「俺は違うよ」
その笑みからは、彼女を支えてやれなかった無念が感じ取れた。真田さんほど頼れる人でも、ダメなのか。
「あの子は、自分が傷つくのを極端に怖がってるんだよ。強そうに見えて、実はものすごく弱いんだよね。知久も覚えがあるんじゃない? 夏実ちゃんに色々言われたでしょ?」
「……まあ」
もちろん全部覚えている。今だって、そのために受けた傷が生乾きになっている。
「あれは自分の身を守ってるんだよ。そのせいで、友達ができなかったけど」
いつの日か、隣に人を乗せるのは初めてと言っていた。あれは真実だったんだ。
あの正論パンチは重い。真正面から受けて、耐えきれない人も多いことだろう。それこそ、嫌いな上司に怒られているようで、いい気分ではない。でもそれは、常に上手に出ることで、他者から攻撃されないための、彼女なりの振る舞いだった。
思わずため息がもれた。頼むよ夏実。それはあまりにも、不器用ってものだ。
「あの子、知久を相当気に入ってるよ」
「なんでそんなこと」
「そりゃ、あの子が全部話してくれるから」
「ちょ」
全部筒抜けってことかい。変なこと言われてないかな。
僕をからかうように真田さんはニッと笑った。
「さあて」
真田さんはその大きな手で僕の肩を叩いた。あんまり力が強かったから、よろけた。
「これで、俺が言いたいことはわかるかな?」
ここまで誘導されたら、どんな馬鹿でもわかる。でも。
「僕以外にもいくらでもいるんじゃないですか?」
僕は未だに自信が持てなかった。夏実の事情はよくわかった。でもそれでいきなり、彼女を救えるのは君だけだ、なんて言われても、僕はそこまで飲み込みが早い人間じゃない。プリキュアくらいだ、すぐに戦えるのは。
真田さんは呆れたように両手を腰に当てた。
「それなら、いつ知久以外の人が現れるの?」
これには、返す言葉がなかった。
真田さんは遠くの空を見上げた。気づいたら雨は上がっていた。
「車だってそうだよ。いい出物があってもつい考えてしまう。もっといいのがあるかもしれない。いつかまた買える。そうやって楽観していたら、もう二度と手に入らなくなっていたことだって何度もある。あのとき買っていたらと、逃した車のことを考えながら別の車のハンドルを握っている時間は、けっこう辛いんだよ」
きっと、真田さんは何度も経験しているんだろう。車でも、人間関係でも。
「……じゃあ、例えばですけど」
「うん?」
「例えば、よさそうな車が二台同時に見つかったら、真田さんはどうするんですか?」
「そりゃ、最後は直感だよ」
「直感?」
真田さんから言われると意外だった。何だか、らしくないように思える。
「あまり悩まずに、これだ! って方を選ぶんだよ。こうやって選んだものは、どんなにダメでも後悔しないんだよね、不思議なことに。人間ってのは案外そういう風に出来ているのかもね」
「え、そんないい加減なことでいいんですか?」
「そんなもんだよ。あまり悩んだって、いいことないよ」
真田さんは両手で僕の体をこれでもかとゆすった。余計な心配の種を落とすかのように。
「知久がもし悩んでいることがあるなら、思い切って、えいやって決めてしまえばいいのさ」
でもそのおかげで、何か吹っ切れたような気がした。
僕はこれまで、あらゆる選択を前にして無駄に悩みすぎた。変に考えすぎて、間違った方を選んだこともある。正しかったとしても、選ばなかった方を後悔したことだってある。
でも、人間はそこまで器用じゃないのかもしれない。だって、選択肢を前にいちいち悩んでたら、一日を過ごすのに一週間かけることになってしまう。
直感とはもしかしたら、人間の本能なのかもしれない。時間をかけずに最適な答えを出すための、またある意味では生存するための、DNAに刻まれた知恵。
直感で決める。
たったこれだけのシンプルなヒントだけど、僕は以降、この言葉に何度も救われることになった。
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