【一人語り】ポルシェとりんごとジェイムズ・ジョイス【創作論】

 ポルシェ356スピードスターのドライバーからりんごをもらった(長野産)。軽井沢のお土産らしい。

 ちょうどいい袋を持ってなかった私は丸かじりすることにした。

 これが。

 こう。

 こうして写真にするとたったの2コマでりんごを食べ終えてしまう。が、実際は結構な時間がかかっている。

 2枚の写真を並べたとき、物語における時間の経過を思った。

 この間には私がりんごをかじるのに苦労した経験やりんごの甘みがある。この写真を見た人は、それと同じ体験をできるだろうか。そうさせるために、何をすればよいのだろうか。

 今回の記事は、物語における時間について語るつもりだ。

目次

あれから10年.zip

 物語の世界は自由自在に変化する。あれから10年と書くだけで10年が経ってしまう。

 あれから10年。

 これをタイピングするのに3秒もかからない。

 10年が3秒に圧縮されるのだ。

 このとき、私は10年の歳月を感じているわけではない。そこに何の感動もない。

 しかし物語の中に上の一文を組み込むと、それだけであらゆることが想像される。

 私の拙作『五速ミッションの選ぶ道』を例にしてみよう。

 主人公の間庭知久とヒロインの御沢夏実がイチャイチャするだけの話だが、最後の一文の後に「あれから10年」と書いてみたらどうなるだろう。

 その10年の間に二人の関係がどうなったのか色々想像ができるだろう。付き合ったのか、付き合ったとしたら何をしていたのか。もしかしたら結婚したのかもしれない。

 3秒に圧縮された時間が、物語の世界の中で再び広がる。そこには登場人物の息づかいがあり、人生がある。

 一方で、読者の視点に立ってみるとどうだろう。

「あれから10年」と書くのに3秒。

 読むには何秒だろうか。おそらく1秒にも満たないだろう。

 その文を読んだとき、読者はそれまでの10年間を想像するだろう。だが同時に、その間には何もなかったのか、と思うだろう。

 仮に、10年後に間庭知久と御沢夏実が結婚していた話が続くとしよう。

 それを読んだ人は二人の成長を感じると共に、なぜ結婚するまでの話はないのかとも思うかもしれない。あるいは、回想や描写で過去を仄めかすことはできても、一つの場面として描かれないことに不満を覚える人もいるかもしれない。

 気になることはたくさんあるのに、書かれたのはたったの一文だけ。

 再び、時間は圧縮されてしまった。

出会って3秒で結婚

 なぜこのようなことが起こるのだろうか。

 映画を観ている時間はせいぜい3時間だろう。小説なら早い人は1時間で、遅くても5時間だろう。

 物語の中で流れる時間と読者や観客の時間は必ずしも一致していない。

 だから、限られた時間の中で割合の多くを占める場面が印象に残る。

 映画の2時間のうち同じ場面に30分使っていれば、観客はそこが重要な場面だと感じるはずだ。30秒くらいで登場人物の1年間を描写すれば、そこは大した場面ではないと思うだろう。ああ一年経ったんだな、くらいだ。

 当たり前のことに聞こえるが、重要だ。

 ある男と女が出会って、結婚した。

 これだけでは何も感動しない。これを何万字もかけて表現し、読み手が何時間もかけて体験することで初めて物語は感情を生み出す。

 いくら物語の中で時間が経ったところで、読者が体験する時間が短ければ、印象には残りにくい。

映す価値なし

 では、安易に省略しないのがよいだろうか。

 有名な小説に『ユリシーズ』というものがある。アイルランドの作家、ジェイムズ・ジョイスの作品で、文学史における代表的な作品だ。

 ストーリーを簡単に言えば、ある中年の男の一日を描いたお話である。この小説、文庫本では4冊にわたる長さである。一日を描くのに4冊(!)。

 神話を下敷きにした構成や、意識の流れ、文体などは一旦置いて、ストーリーだけに目を向けると、とんでもないことをしている。

 ジョイスが偉大な作家であるから許されるが、私のような下手な作家がやったら読者は二度と私の文を読んでくれなくなる。

 ライトノベルやエンタメ小説など、物語を描くつもりなら余計な部分は省略するべきだ。

 物語に一ミリも影響しないのに、今朝の歯磨き粉の出が悪かったことを書いても意味がない。

 書かないことで表現できることもある。

 とある映画の一場面を例に出そう。

 車をかけてレースをする直前の場面を映し、次の場面では勝者の手に相手の車がある。

 このとき、なぜレース中の様子を映さなかったかは簡単だ。映す価値もないほどに圧勝だったからだ。

 敗者が挑発していればそれだけ、この省略は効果的になる。わざわざレースで負けて悔しがるところを映すより、よっぽど哀れだからだ。

 登場人物が食事をする場面を最初から最後まで見せられたらげんなりするだろう。リアルだが、何か違う。

 物を書くということは、書かないものを選ぶということでもある。作者が書かなかったものを、なぜ書かなかったのかを想像できるとさらに深い読書ができる。

 あれから10年。

 適切に使えれば、読者は不満を持たず、安心して10年の歳月を感じ取れるだろう。

 描きすぎるのも逆効果なのだ。

たーべるんごーたべるんごー

 つまるところ、バランスが大事だ。どこに力を入れ、どこを省略するか。あえて省略することで読者に何を想像させるのか。

 この配分が絶妙な作品は面白い。

 では実際に書くときはどんな配分がよいだろうか。

 ここでは書かないが、いずれ私自身の創作論ということで公開するかもしれない。私もまだまだ研究中だ。

 最後に、以上の内容を踏まえてもう一度、りんごを描いてみたらどうなるだろうか。こればかりは私も正解がわからない。

 挑戦してみよう。

 ポルシェ356スピードスターのドライバーからりんごをもらった(長野産)。

 軽井沢のお土産らしい。

 ちょうどいい袋を持ってなかった私は丸かじりすることにした。

 手のひらにちょうど収まる大きなりんごで、最初のひと口は苦労した。

 ハリのある皮に歯を突き立て、実をかじり取る。すっきりとした甘みが口の中に広がった。新鮮だ。シャキシャキしている。ほどよい酸味もあって飽きない。

 で、こっちが食べ終わり。

 おいしくてあっという間に食べてしまった。

 あまりりんごを食べてこなかったのは、たまにモソモソした食感のものに当たることがあって、苦手だったからだ。

 だが、考えを改めよう。

 やまがたりんごをたべるんごー。

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