今日、遅刻をした。
あの血の気が引いていく感覚は、しばらく忘れられないだろう。
時は金なり
ちょっとしたオンラインのイベントがあった。大学生向けのイベントで、自分が所属している部活動が普段どういった活動をしているかをプレゼンするものだ。
このプレゼンのために、私は一ヵ月間考え続けることになった。プレゼンのスライドをcanvaで作っては修正を繰り返し、旅行中も原稿を考え続けた。
始めから気が進まないイベントではあった。しかし、引き受けてしまったからにはやるしかない。本番ギリギリにはなったが、ある程度納得のいくスライドができたし、原稿も時間内に収まるものができた。
だが、遅刻した。開始時間を15分以上も過ぎてから、私はzoom会議に参加した。
すでに他の団体のプレゼンが始まっていた。私は平常心を保つのに精いっぱいで、その団体が何をしているのかも覚えていない。
カメラをオンにさせられたのもまずかった。動揺をしてはいけない。私はとにかく、あたかも始めからいたような顔を作ってプレゼンを聞いていた。
自分たちの番が来たときには気分も落ち着いて、普段通りに話すことができた。そこはよかったと思う。
だが、遅刻した。それが私に後ろめたさを感じさせた。「ミーティングを退室」のボタンを押すその瞬間まで、声を大にして謝りたかった。
ああ、遅刻してすみませんでした。
遅刻してすみませんでした。
アイデンティティの崩壊
待った? ううん、全然!(深夜組)
普段の生活でも、至るところで時間がキッチリ決められている。締め切り、授業の開始時間、電車の出発時間。シビアすぎるくらいだ。日本くらいではないのか。
一分一秒を争う世界だ。マリオカートのタイムアタックの比ではない。
自慢ではないが、私は小中高すべてで遅刻をしたことがない。中学生時代は、何ならクラスで一番乗りに学校に来ていたくらいだ。
それはいつしか私のアイデンティティになっていた。
「私は時間を守る」
待ち合わせも電車の乗り換えもホテルのチェックインも、私は破ったことはなかった。
いつからだろうか。私が気づかないくらい、それはゆるやかに狂ってきた。
この半年間で、私は何度遅刻しただろう。
もちろん、予定そのものをすっぽかしたり、大事な約束に遅刻するというような致命的なミスはしていない。
数分の遅れなのだ。たった数分。
一週間ほど前もやった。仲間と旅行に行くのに集合時間を知らされていたが、私は2分遅刻した。他の人はみんな来ていて、私待ちだった。
このような数分の遅刻を繰り返すようになった。
遅刻確定したときの朝は気持ちがいい
普段は守っているから一回くらい遅れても許してもらえるだろうだなんて思っていない。あるいはそれよりもずっとタチが悪い。
どうしてか、「私は時間を守る」が私に変な安心感を与えていた。いつも守っているから、今回だって間に合うだろう、と。
不思議な力が働いて時計の針を戻してくれるとでも思っているのだろうか。あの謎の余裕は何なのだろうか。
それは成功体験に寄りかかるようになった瞬間だろう。
自分のアイデンティティを崩さないようにと必死になっていたときがあった。時間にだけは遅れないようにと、常に時計を意識した。どんなアクシデントがあっても強引に間に合わせてきた。
これが私に成功体験を与えた。その度に、私の意志は強くなった。
「絶対に間に合わせる」
その意志が失われたとき、誰が時間を守るのだろうか?
誰もいない。
緊張の糸が切れた。
「絶対に間に合わせる」が「どうせ間に合う」になった。
そうして私は時間にルーズになった。
思えばそれまでは、レポートの締めきりなど、強制的に時間を守らなければならないことが多かった。
ここ最近はそれがなくなった。時間に追われることもなかった。時間を守らなければ困ることといえば、ホテルのチェックインくらいだろう。
油断していたのだろうか。
それとも、全てをきっちりしすぎてしわ寄せが来たのだろうか。
川の流れのように
時間の捉え方には文化的な違いがあるらしい。
モノクロニック文化とポリクロニック文化の二つに分けられるが、言葉ではよくわからない。日本はモノクロニックに分類されるそうだ。
モノクロニック文化にとって時間は一本の川で、ポリクロニック文化にとっては一つの大きな湖だと例える人もいる。なるほど、言いたいことはわかる。
放っておくとどんどん流れていくものなのか、常にそこにたくさんあるものなのか。
私にはポリクロニックの考え方が理解できない。理解できないだけで、悪いとは思わない。むしろうらやましいと思う。のんびりしてそうで、いいな、と。
どちらがいいか、という話ではない。結局、時間は全人類に平等に与えられている。私たちに出来るのは切り分けることだけだ。
もし世界中の時計の針が五分戻っても、何も起こらないだろう。時間なんて、相対的なものでしかない。私はそう思う。
だったら、少しくらい早くても、少しくらい遅れてもいいじゃないか。
ゆっくりのんびり生きていこう。
川の流れのように。
遅刻してすみませんでした。
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