【自作小説】『いつか死にゆく俺たちは』(7/7)

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自作小説です。今回が最終回です。

最後までお付き合いください。

 マリナはホテルの前で車を止めた。

「わざわざ送っていただいて」

「いえ、歩くのも大変でしょうから」

 目を合わせた俺たちは、同じタイミングでぷっと笑ってしまった。

「なんだか、今になって敬語っていうのもヘンですね」

「そうですね。こそばゆいと言いましょうか、何と言いましょうか」

 マリナはくすくすと笑い、上目遣いに俺を見た。それは物をねだる子供のように邪気のないものだった。

「では今から、敬語はナシってことで」

「はいっ。そうしましょう」

 それからまた二人で見つめ合う。

 マリナの丸い顔がほんのりと赤みがかっている。俺の頬も熱を帯びているのを感じた。

「マリナ」

「オカモトくん」

 ちょっと待て。

「どうして俺は『くん』付けなんだ?」

「だって、もうずっとオカモトくんって呼んでたから」

 だめ、かな? マリナがあまりに真剣に言うから、俺は駄目と言えなかった。俺自身もそう呼ばれることに慣れていた。

 もう一度名前を呼び合ってから、俺たちは軽く口づけをした。

「じゃあ、今日はここで」

 これからのことは分からない。小説のこと。それからマリナとのこと。だが今はゆっくり考える余裕がある。

 いつかは、こうして別れる必要がなくなるかもしれない。同じ場所へ帰ることだって、できるかもしれない。

 その日が来るのを待ち遠しくも思いながら、俺はドアを開けた。

 そこで俺は奴の姿を見た。

 ヘッドライトに照らされながら、道の真ん中を歩いてくる。俺は目を疑った。

「探したぜ。ベストセラー作家さん」

「キザキ……!」

 こんなところまで何の用だ。それに、なぜ俺のホテルを知っている。

「どうした。電話では飽き足らないか。意外と寂しがり屋さんだな」

 キザキは俺を睨みつけた。様子がおかしかった。

 俺が以前に顔を合わせたときの、やる気に満ちていた姿とはまるで違っていた。足取りは不確かで、生気が抜けている。頬は痩せこけていて、落ちくぼんだ目で俺を見据えていた。その奥に光るのは、どす黒い感情だった。

 奴の手元で何かが光った。それに気づいたマリナが声を上げた。

 ただ事ではなかった。思えばあの電話のときに気づくべきだったか。とにかく、マリナだけは巻き込めない。

「マリナ、行ってくれ」

「でも」

「頼む。明日また、そっちに行くから」

 俺はマリナに銃口を向けていた。

「オカモトくん……それ……!」

「全部話す。だから行ってくれ」

「……」

 マリナは黙って頷き、車を走らせる。荒々しいエンジン音が遠ざかっていった。

 車が去り、俺とキザキは正面から向かい合った。

「何のつもりだ」

「許せないんだよ。お前のこと」

「売り上げで負けたからか? そんなことをいちいち気にしてたらキリがないぞ」

「お前のせいでっ!」

 何もかもをぶちまけるような叫びだった。

「お前のせいで俺は書けなくなったんだ!」

 俺は奴の言っている意味が分からなった。書けない理由に、なぜ俺が関わっている。

 いや、違う。今だから俺は分かってしまった。

 奴も俺と同じだ。目標を見失い、自分で立つこともできなくなる。俺がユキのために書いていたように、奴は俺に勝つために書いていた。

「そんな一度や二度負けたくらいで、大げさじゃないのか?」

 ならばまた書いて、それで俺に勝てばいい。そう思った俺は考えが甘かった。

「打ち切りだよ」

 キザキは俯いて、肩を震わせた。

「お前に負けてから、ボクは全く書けなくなった。それで全部打ち切り」

 そんなことがあっていいのか。俺はキザキに同情さえ覚えた。一歩間違えれば、俺もそうなっていたからだ。

 キザキは今、どん底にいる。俺が自殺しかけたときのように。

 だが俺はそこから立ち直った。新しい目標を、生きる意味を見つけたからだ。キザキにもそれができるはずだ。

「キザキ、辛いのは俺も分かる。でも――」

「お前に何が分かるんだ!」

 俺の言葉を遮った。一言も聞きたくないとでも言うかのように。

「キザキ!」

 それでも俺は退かなかった。このままではキザキは道を踏み外す。

「今は耐えてくれ。別に死ぬわけじゃない。辛かったら全部放り投げてもいい。俺も協力するから」

 ウザい奴だが、こんな惨めな姿を見て喜べるほど俺はクズではない。俺はキザキに寄り添ってやりたかった。

「そうか、そうか……」

 だがキザキは手遅れだった。

「ならお前が死んでくれ」

 そう言って奴はナイフを握りしめた。

 そこで初めて、俺は逃げることを決めた。本能が、全力で目の前の死から逃れようとしていた。

 振り返る余裕もない。今使える全て以上の力で走った。

 恐ろしいほどに叫びながらキザキが追いかけてくる。もっと恐ろしいことは、少しずつ近づいてきていることだった。

 俺は元から運動が苦手だった。足も遅く、体力もない。どうして子供の頃から運動してこなかったのだろうか。俺は今になって後悔した。

 あっという間に追いつかれて、腕を伸ばされたら届く距離にまで近づいた。それでも足を止めるわけにはいかなかった。

「このっ、死ねえええ!」

 背後でナイフが振り上げられた。全身の毛が逆立った。

 咄嗟の機転で俺は横に跳んだ。受け身も取れずに全身を地面に打ち付けられた。

 キザキはナイフが空振った拍子につまづいて、頭から転んだ。軽い金属音がしたのは、キザキがナイフを手放したからだ。

 さらに運のいいことに、そのナイフが俺のところへ転がってきた。這いつくばりながら俺はそのナイフを手にした。俺は一瞬の安堵を覚えた。

 だがそれも直後に恐怖へ変わる。手にあったはずの拳銃がない。

 ハッとしてキザキを見ると、手にはナイフの代わりに拳銃が握られていた。人生で最悪の瞬間だった。

「お、おい、アラサーにもなってガンマンごっこか? おもちゃだぞそれ」

 俺は嘘をついた。

「関係ねえ。まずお前を痛めつけて、それからナイフで殺す」

「もし本物だったらどうする? 本当に俺が死ぬかもしれないぞ」

 キザキは本気で俺を殺そうとはしていないかもしれない。そんな、わずかな望みを信じた俺が馬鹿だった。

「悪いが今のボクは本気でお前を殺してしまいそうだ」

 冗談ではなかった。奴の目は錯乱していた。

「いいのか? 殺人だぞ。犯罪だぞ! 殺したら、本当に、お前は立ち直れなくなる。今ならまだ引き返せる。何もこんなくだらないことで、人生まで棒に振らなくてもいいじゃないか!」

「知ったことか! もう俺の生きる意味なんてないんだよ!」

 キザキは銃口を俺に向けた。橋の上のときとは違う。逃れようのない死が背中から俺を優しく包み込んだ。

 ああまずいこった。こいつ本当に引き金を――

 脇腹を強く殴られた。いや、違う。奴の拳銃から煙が上がっていた。

 触ると、手のひらにべっとりと赤い液体が付いた。

そこから、何か人間が生きるために大事なものが止めどなく流れ出した。

 耳が遠ざかっていく。少し遅れて、足の感覚がなくなった。まるで下半身がまるごと消えてしまったかのように、力なく地面に崩れ落ちた。

 ああくそ、ビギナーズラックってやつか。普通、素人が当てることなんてできないのに。

 まるでどうでもいいことが頭に浮かんでは消えた。もう、身体中のどこも力が入らなかった。

 唯一動く目でキザキの姿を捉えた。キザキは顔に何の表情も浮かべていなかった。銃を握ったまま二、三度辺りを見てから、ぎこちなく銃を落とす。それから何もなかったかのように足早に去っていった。マイケルがソロッツォを殺したシーンを思い出した。あれはレストランで、周りに人もいたから少し違うか……

「オカモトくんっ! オカモトくんっ!」

 遠くで聞き覚えのある声がした。足音が近づいてくる。どうしてまだここにいるんだ。来ては駄目だ。

「マ……リナ……」

「オカモトくん……? あああああっ! オカモトくん! オカモトくんっ!」

 マリナが俺を抱きかかえた。そんなことしたら、せっかくの服が汚れるのに。

「血が……ああ、あああ……だめ、だめ、しっかりして! いま、今、警察が来るからっ」

 マリナは何度も番号を間違えながら救急車も呼んだ。ほどなくしてけたたましくパトカーのサイレンが聞こえてきた。

 ああ、とんだ大事になってしまった。本当に、どうなってしまうのやら。

 次第に意識が遠ざかっていっても、俺は至って正気だった。瞳に映るマリナの顔を、スクリーンを通して見ているような気分だった。自分のことのように思えなかった。

 痛みもなければ、音もない。深い海の中にたった独りで漂っているようだった。

「しっかりして! だめ、待って、待って、オカモトくん!」

 涙やら鼻水やらでぐちゃぐちゃになりながら、マリナは何度も俺の名を呼んでいた。だから「くん」付けはもういいのに。

「だめ! だめえっ! 死なないで! 死なないでよ! あああ――あああああっ!」

 どうしてマリナが泣くんだ。死ぬのは俺なんだぞ。そんなに悲しまれても困る。

 薄れていく意識の中で、ある疑問が銃弾のようにかすめた。

 俺は本当に死ぬのか?

 映画やドラマの中の話ではなくて、俺自身の話なんだよな。ここで死ぬのは、他でもない俺なんだよな。

 死んだら、どうなるのだろう。死後の世界はあるのだろうか。この意識は一体どこへ行ってしまうのだろうか。もう二度と、考えることも感じることもできないのだろうか。

 もう、マリナとも会えないかもしれないのだろうか。

 マリナ……

 ほとんど霞んでしまった視界に大きく、マリナの顔が写っている。俺はこの人を愛して、これからも愛していくつもりだった。マリナと共にやりたいこともたくさんあった。

 死んだら何一つ叶わない。死んだら終わりなのだ。

 死ぬことに意味なんてない。救済になることも、悲劇になることもない。死は人間に等しく訪れる。死は死だ。それ以上でもそれ以下でもない。

 人間はいつか死ぬ。逃れようのないことだ。

 だが、希望はある。そこまで悲観的になる必要はない。生きていれば、悲しいことや辛いこともある。だがそれ以上に、喜びや幸せを得ることができる。自分の努力次第で、いくらだって人生を輝かせることができる。

 今の俺には目標がある。生きることへの強い意志がある。死から逃れるのではない。生きることにただひたすらに真っすぐなのだ。

 だから、ここで死ぬわけにはいかないんだ。

 生きていたい。ただ生きていたい。

 そう、俺は――

 生きたいんだ!

 そこで意識が途絶え、目の前は暗黒に塗りつぶされた。

 新しい花を供えると、マリナは手を合わせた。

 太陽が一番高く上がっていた。光をこれでもかと照り付け、地上の生命に力を与えている。

 至る所で虫が鳴いている。青々と茂った木々が、空を目がけて伸びている。輪郭のはっきりとした大きな雲が一つ、悠然と佇んでいた。

「ユキちゃん、元気にしてた? ごめんね、全然会いに行けなくて。本当に、本当に色々なことがあったの」

マリナは穏やかに語りかける。ユキが死んでからマリナの周りで起こった出来事を、できるだけ詳しく。

「私ね、とうとうオカモトくんとキスしちゃった。あー、思い出すだけでも恥ずかしいー。でも聞いたよ? ユキちゃんもちゃっかりやることはやってたんだね。さっすがあ。やっぱりユキちゃんには敵わないなあ」

 旧友と再会したように、マリナは楽しげだった。しかし、その笑顔が次第に陰る。

「オカモトくん……」

 俯いて、わずかに開いた唇が震える。

「本当はこんなこと言いたくなかった。でも、ユキちゃんにはきっちり伝えるべきだと思ったから、だから言っちゃう」

 マリナは顔を上げ、決意に満ちた目を向けた。

「私、オカモトくんのことが好き。ずっとずっと、好きだった。これからもずっと好き。ユキちゃんだけじゃないんだから」

 風が吹き、長い髪がなびく。その先にある姿をマリナは横目で捉えた。しかしそちらは見ずに、ユキの墓へ向き直る。

「だから、ユキちゃん。オカモトくんをください」

 マリナは深々と頭を下げた。

「何やってんだ?」

「ん、ひみつ」

 隣に立ったオカモトは、マリナを珍しいもののように見ていた。

「ヘンなの」

 花と線香を供えてから、オカモトも手を合わせた。

 撃たれたオカモトは奇跡的に一命を取り留めた。キザキはすぐに逮捕された。入院中も警察の取り調べが続き、心身共にすっかり参ってしまったオカモトを、マリナはそばでずっと支えていた。

 ユキが死んでから一年が経とうとしていた。彼女がいない世界は、特に大きな変化もなく続いている。

 しかしオカモトにとってのこの一年は、大きな変化であった。激動の連続であったが、それを乗り越えた今、彼はずっと強くなった。それに、大切な人もできた。

 突然、携帯電話が鳴り出した。オカモトのポケットからだった。

 三回目のコールで電話を取ると、聞きなれた声だった。

 適当に相槌を打って、電話を切った。

「編集から?」

「そう。また修正だって」

 やれやれ、とため息をつくオカモトだが、その表情はどこか楽しげだった。

「それじゃあ、もう行くね。また来るよ」

 ユキに別れを告げて、二人は手をつなぐ。マリナの薬指で指輪が光った。

 一度、オカモトは足を止めて振り返った。

「どうしたの?」

 オカモトの視線の先には、墓石が一つ。それだけだった。

「……いいや、何でもない」

 ユキが死んだら、どうやって生きていくのか。

 その答えを教えてくれる人はいなかった。それは自分で見つけるものだった。

 オカモトの中には、すでにその答えがある。

「俺はこれからも生きていく。マリナと一緒に」

 オカモトは強くマリナの手を握った。マリナも同じように握り返す。

 晴天の下、彼は生きる意味を強く感じていた。

これで終わりです。最後までお付き合いいただきありがとうございました。

次回作もよろしくお願いします。

始めから読まれる方はこちらからどうぞ。

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