【自作小説】『いつか死にゆく俺たちは』(4/7)

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自作小説です。

カクヨムにも投稿しています。

本文は以下から。

 荷物を全て積み込んでも、まだスペースが残った。

「本当にこれだけでいいのですか?」

 マリナが心配そうにこちらをうかがう。

「いいですよ。いらないものばかり家にありましたから」

 マリナに代わって俺がトランクを下ろした。

「さて、準備はいいですか? ここから長いですよ」

「あ、じゃあお手洗いだけ」

「ごゆっくり」

 俺は先に運転席に乗り込んだ。

 窓からかつての我が家を見つめた。特に感動はしなかった。そこまで高くなかったし、それにずっと一人暮らしだった。思い出はない。

 しばらくしてマリナが助手席に乗り込んだ。

「ごめんなさい、遅くなりました」

「いえいえ。じゃあ、シートベルトを締めてくださいね」

 マリナがベルトを締めると俺はすぐにアクセルを踏み込んだ。

 我が家が遠ざかる。もう戻ってくることはないだろう。永遠におさらばだ。

 マンションを退去することを決めてからは早かった。

 家具は全て売り払った。本もまとめて売った。それから口座の預金も全て引き出した。手元に残った金はさほど多くはない。だが、残りの生活を考えれば十分だった。

 この引っ越しのためにマリナを呼び出した。まともに知り合いといえる人がほとんどいなかったのだ。快く引き受けてくれたのはありがたかった。

 レンタルしたバンは快調に高速道路を走っている。

「あの、本当にいいのですか?」

 マリナはおずおずと訊ねた。

「いいって、何がですか?」

「その、引っ越してしまって……」

「いいですよ。僕はどこにいたって仕事はできますし。たまに東京に行くことはありますが、それほど遠くはないから平気です」

 俺は故郷に向かっていた。生まれてから幼少期、高校生までを過ごした場所。そして、ユキが死んだ場所でもある。

 これから俺もそこに骨を埋める。このことはマリナには秘密にしてある。彼女にはただ、そっちに引っ越すとだけ言った。説明が足りていないのは俺も分かっている。なぜ引っ越すのか、引っ越して何をするのか。きっと彼女は様々に想像しているはずだ。その中に、俺がしようとしていることが含まれていてもおかしくない。

 申し訳ないとは思う。だが、この状況を招いたのはマリナだ。だからしばらく付き合ってもらう。

 高速道路を降りると、田園風景が広がっている。背の低い山がすぐ横にあり、逆側はさっきまで走っていた道路が伸びている。

 典型的な田舎の景色だ。一面が自然でのどかな雰囲気なんてのは幻想でしかない。廃れかけの土地に文明が容赦なく根を生やしている。

 懐かしいと思っても、感動はしない。

 隣を見ると、マリナは寝ていた。起こすのも悪いから、そっとしておこう。

 俺はいつもよりゆっくりとアクセルを踏んだ。

 地元のホテルに荷物を運んでレンタカーを返すところまで、マリナは付き合ってくれた。移動が大変だからということで、店から彼女の車で送ってもらうことになった。

マリナの運転は全てが丁寧だった。ハンドルの切り方も一定で、車体の揺れを全てコントロールしていた。それに、周りがよく見えている。周りが見えているから、スピードを出していても安心できる。

 時間も丁度良かったから、通りかけの店で夕食を食べた。俺が中学校に上がったくらいに出来た回転寿司のチェーンで、今でも続いているのに少し驚いた。遠慮してなのか、マリナは一番安い皿しか取らなかった。会計は俺が全て払った。

 ホテルの前に車を止めると、マリナはぼそりと言った。

「私、今は一人暮らしなんです」

 眠たげな目を俺に向ける。暗い車内で、街灯に照らされて唇が艶っぽく光る。

「そういえばここのホテル、駐車場の予約はいらないようですね」

 俺が答えると、マリナは赤いフォルクスワーゲンを残り少ない駐車スペースに押し込んだ。

 つまりはそういうことだ。

 愛はなかった。だが、それなりに歳を重ねても独り身だったせいか、互いに強く求めあった。

 そのときだけは不思議と、ユキのことを考えなかった。

手入れの行き届いたしなやかな体躯を抱いているときだけは、俺は何事からも解放された気分に浸れた。

 事が果ててからは静かだった。互いに一言も言葉を交わさず、同じベッドに入った。

 天井を見つめながら、俺はユキのことを考えていた。それから、小説のこと。取り留めもないことがぐるぐると回っていた。それらはやがてぐちゃぐちゃなまま一つにまとまって、そして拳銃で粉々に砕かれる。

 鞄に入ったままの拳銃が、どうしても気になってしまう。今はあれが俺の命を握っている。いつだって簡単に死ぬことができる。俺はその誘惑に耐えなければならなかった。

 こんな静かなときに銃声が聞こえたらきっと、誰も気に留めないだろう。

 当たり前だ。この国の人間にとって拳銃はフィクションの中にしかない。誰も本物を知らない。もし本物だったとしても、信じる人はごくわずかしかいない。俺がここで引き金を引いたって、夜中の雑音に紛れてしまうだけだ。

 それは、とても、都合がいいことじゃないか。

 本当に、やってしまおうか。

 あれこれ考えて計画を立てるのも、もうどうだっていいのかもしれない。後に残るものなんて、死んだ俺には関係ない。どうせ生きていたって、ユキはもうこの世にいない。

 これまでの人生をユキのために捧げてきた。小説を書いて、彼女に読んでもらうために生きてきた。それだけが生きがいだった。

 ユキがいなければ、俺は何もできない。

 彼女の墓を見たときと同じ感覚が襲った。

 どうしてだよ。どうして死んだんだよ。

 ずっと黙ったままで、これからもずっと黙ったままか。

 ふざけるな。

 死ぬのなら、俺に死ぬって言ってから死ねよ。してやれたことだってたくさんあったのに。

 お前がその機会を全部捨てたんだ。俺は何もできなかったのに、自分だけ身勝手に。

 そうだ、お前のせいだよ、ユキ。

 お前が全部狂わせたんだ。人生を、俺自身を。

 お前さえいなければ、俺は――俺は――

 気づいたら涙が止まらなくなっていた。わけの分からない感情が胸に押し寄せてきて、それを処理しきれずにいた。子供に戻ったみたいだった。

 墓参りをしたときは何ともなかったのに、今はどうしても抑えられない。

 マリナが寝返りを打った。起こしてしまったようだ。

 それでも涙は溢れてくる。嗚咽だけでもなんとか堪えようとしてかえって息苦しくなり、吐き出すように咳をした。

「泣いてるの……?」

 不安げに瞳を揺らすマリナを横目で捉えた。

 俺は答えなかった。一人にしてほしかった。

「もしかして……ユキちゃんのことを……」

 俺は顔を背けた。みっともないと分かっていたが、構わない。

 この気持ちは誰にも分からない。分かってもらってたまるものか。

 俺だけの問題だ。俺一人が抱えていればいい。

 そっと、マリナの腕が身体に回された。慈愛に満ちた手つきで、俺を包み込んだ。

「私にできることは少ないのでしょう。ごめんなさい」

 彼女の身体がさらに密着する。触れ合った素肌から、体温を強く感じた。熱い。これはマリナの秘めているものだろうか。

「私も大切な友達を亡くしました。独りぼっちで、寂しさに耐えられなくなりそうだったこともあります」

 そこでようやく、俺はマリナの目を見た。それは力強く開かれていた。

「気持ちが分かるとは言いません。けれど、これだけは言えます。今のオカモトくんは決して独りではない」

 不意に心が揺れた動揺で、俺は再びマリナから顔を逸らした。

 一瞬でも彼女を魅力的に感じてしまったことが悔しい。それは彼女にも筒抜けだろう。俺の身体も熱くなっている。

 ユキに振り回されているだけの大人しい女の子だったのに。人はこんなにも変わるものなのか。

「マリナさん」

「……はい?」

「もしかしてそれも、ユキに吹き込まれたのですか?」

 相当失礼なことを言ったと、口にした直後に気づいた。

 顔の周りから急速に熱が逃げていく。

「オカモトくん」

「はい……」

 マリナの手が俺の首筋を撫でる。するすると顎に移り、それから反対側の頬へ。

「もしそうだったとしたら、私の言葉は嘘になるでしょうか」

少し強い力で顔をマリナの方へ向かされた。ユキを思わせるような強引さだった。

「確かに、ユキちゃんからオカモトくんに伝えるように言われました。ですが私はユキちゃんの口の代わりではありません」

 一瞬見せたそれは怒りだった。初めて見るマリナの感情だった。驚きはあっても、申し訳なさが先に立った。

 しかしそれはすぐに穏やかな笑顔に変わった。それがマリナには相応しかった。

「ユキちゃんはオカモトくんをずっと愛していました。彼女の手にはいつも、オカモトくんの本がありました」

 それからマリナは俺の知らないユキの話をしてくれた。

 ユキは高校に入学しても、ボーイフレンドを一人も作らなかった。大学には進学しなかったが、その後に何をしていたかは教えてもらえなかった。俺の新作が出たときは、いつも一番に買いに行っていたそうだ。

 俺の本がユキにも届いていたことを知ったときは嬉しかった。

 だが、マリナの語り方はまるで、何かを避けるようだった。もっと重要な何かを、まだ隠し持っているようだった。

俺は、かつてあらゆる人にユキの行き先をはぐらかされたように、無力だった。

 いつだって、俺にはどうしようもない。どんなに手を伸ばしても、自分では勝ち取れない。なのに、嘘みたいに気まぐれなときに、ふらりと向こうからやってくる。

 もうたくさんだった。一度くらい、自分の手で得られるものがあってもいいじゃないか。

 俺は再び決意を固めた。この死は、ユキの元へ行く最初で最後のチャンスだ。

 会って話せなくても、俺はユキと同じ場所にいられればいい。

 ユキのためならば、俺はどんな努力だってする。

「オカモトくん?」

 いつの間にか、俺は隣で寝ている人が誰なのかも分からなくなっていた。

 何かに抱かれていることだけを感じて、しかしそれに身を委ねることはしなかった。

 宙に浮いているような、自分だけが世界と切り離されているような気分だった。

 俺は生と死の狭間にいる。常に重力のように死の世界へ引き寄せられているが、生の世界から伸びる糸に絡めとられ、動けなくなっていた。今すぐにでも切ってしまいたい。  我慢できなくなるまでに、あとどれくらいの時間が残っているだろうか。

 困ったことがあったらいつでも連絡してください。マリナはそう言っていた。

 幸いにしてなのか生憎なのか、俺は誰の手も借りなかった。

 とても、調子が良かった。

 雑誌の連載を終わりまで全て書き溜めた。シリーズの完結編は二か月で書き終えた。

 自分でも驚くほど筆が進んだ。書けば書くほど自分の中から言葉が溢れてきた。

 俺が初めて小説を書いたときの感覚に、それは近かった。とにかく書くことが楽しくて仕方のない、あの感覚だ。

 思えばプロになって初めて、ユキのことを考えずに書いた。ユキのために書く代わりに、不特定の誰かのために書いた。きっと、酷いものになっているはずだ。

 だがそれでいい。これで最後なのだから。

 身の回りの整理もほとんどついた。両親はとっくに死んでいて、ほとんど知人もいなかったから、さほど苦労はしなかった。出版社には何も言わなかった。

 あらかたの準備が全て整ったのは、夏の真っ盛りのときだった。

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